湖というものに、むかしから深い愛着と遠いあこがれがある。そもそも漢字の成り立ちとしてすばらしい。さんずい編に古い月。水面に映る月が目に浮かぶようだ。なんともロマンティッッッックな風合いをたった一文字にこめたものだ。
僕が湖を好きな理由として、白鳥ボートの存在がある。そう、あの文字どおり白鳥のかたちをしていて、体内に人間が乗りこみ、ギィコギィコと人力で漕いで水面上を推進する、あの乗りものだ。正式名称はスワン・ボート。僕はむかしから白鳥ボートと呼んでいるので、そう呼びつづける。いまにも「お父さん、もっと漕いで!」という女の子の声援が聞こえてきそうである。
なにが白鳥ボートだ、あんな子どもだましのおもちゃが湖畔にたった数台でも浮かんでいるだけで、湖の景観が台なしではないか。そう思う方もいるだろう。僕に言わせれば白鳥ボートの単位は台ではなく一羽二羽だが、まぁそれはいま関係ない。
たしかに、白鳥ボートは静謐なる湖の情景にはいささか不釣り合いかもしれないし、荘厳なる湖の神聖なたたずまいにはそぐわない可愛らしさがある。
しかし、考えてもみろ。桟橋につながれて「僕に乗っておくれよ」という愛らしい視線を我々に投げかける白鳥ボートのいとおしさを。みなもに揺れながら、通りがかるひとびとに変わらぬ瞳で訴えつづける白鳥ボートの、あの愛くるしいすがたを。無視されてもその儚げな目線は僕の心をつかんで放さない。「湖といえば白鳥だべ。チャイコフスキーさんも言ってたべ」などといった安直で短絡的な発想からボートと白鳥をくっつけてしまったことへの、そこはかとない哀傷と憂愁がこめられた含羞ではないか。なんという憂事に御用心。これは先人たちの我々へ向けたメッセージを体現しているようでもある。白鳥ボートは、山紫水明な湖の眺望に、そこばくの寂寞をしめしてくれるすぐれた乗りものであると、僕は思うのだ。
近所の公園におおきな池があり(湖ではない、池だ)、そこには白鳥ボートもある。なんと白鳥のほかにひよこまでいるではないか! 白鳥も生まれたてのころは黄色かったのかなぁ、という誤った想像を子どもたちに提供してくれる、かなしきかなタンポポ色のきれいなボートである。これではそのうちクジャクとかフラミンゴとかも作られそうだが、そんなことを実現してくれる職人がいるのかどうか、いまもって不明なところ。可能なら鳳凰とか朱雀とかまでつくってしまえば美しいような気もするが、それだと湖の景観保護派の方々にえらい反発を受けそうだし、もはやチャイコフスキーも想像しえなかった域におよんでいるので、やめておいたほうがいいと思う。
儚くも愛(かな)し白鳥ボートを、今日も今日とて愛してく。
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自己紹介

- レオ
- 好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。
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