滅裂だと酷評された『半分、青い。』を、それでも好きだと思った

2018/09/29

movies 感想

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はじめに


もともと僕は朝ドラを毎日観るルーティンがない。母親が録画して観ているのを、横からなんとなく観て物語を把握しているにすぎない。しかし『半分、青い。』は、横から観ていても滅裂な物語であった。横から観ていたから尚更かもしれない。

これまでの多くの朝ドラが踏襲してきたあるべき姿からは大きくはずれ、主人公・鈴愛はなかなか“わかりやすい偉業”を成し遂げないし、相手役の男性とも結ばれる気配は薄くなるばかり。岐阜は恵那から上京し、漫画家を目指しているはずだったが辞めることとなり、最初はその事実を家族に言えぬまま100円ショップで働きはじめたかと思えば、映画監督志望の旦那を見つけ、子どもが誕生。そこはなんといっても子はかすがい、夫も家族優先でクリエイティブの見習い仕事は手放ししばらくは、狭いながらも明るい我が家。……かと思いきや今度はやっぱり夫が夢を捨てきれず離婚、シングルマザーに。鈴愛は、食堂を営む岐阜の実家へ帰り、そこから祖父がつくるご当地銘品・五平餅を軸としたカフェを始める。そのときに店のシンボルとして彼女が発明したキャラクターがやがて東京の企画会社に見出され……と、ロストジェネレーションにも説明しがたいほどの切実さであった。

いまでいう「キャリアパス」なんてかっこいい言葉ですら括れない経歴に、圧倒的なリアリティを感じたことは確かなんじゃないかと思う。

そんな『半分、青い。』だが、僕はその七転八倒な脚本も含め好きだった。この朝ドラは、間違いなくおもしろかった。


少女漫画的な手法で描いた詩的な世界


観はじめたころ、最初から気になっていたのは、会話やモノローグに、詩的表現が多く含まれていることだった。モノローグに詩的表現を用いるのは、文芸的には少女漫画に顕著な手法だ。だから僕はかなり早い段階で「これは少女漫画だ」というフィルターを設けた。

まず、登場人物たちの名前が美しい。楡野鈴愛(にれの・すずめ)、萩尾律(はぎお・りつ)。鈴愛の娘の名前は花野(かの)。この漢字でこの音を読ませるセンスの良さ、子どもに名前をつけたり、小説や脚本で登場人物の名づけをしたことのあるひとなら「うまい…!」と感じるんじゃないだろうか。母の名前は晴(はる)、父の名前は宇太郎(うたろう)。これはおそらく「どう呼び合うか」の音のほうから決めたんじゃないだろうか。「ハルさん」「ウーちゃん」と呼び合う夫婦は、岐阜の田舎に住んでいるわりに現代的で自由な風が吹いており、地元出身じゃなく県外からやってきた人たちなのかなと感じさせられる。この二人ならあまり画数にこだわったりせず、「鈴愛」という名前を娘につけてもおかしくないだろうなと、主人公の存在感にも説得力を与えている。

「笛の音で恋人を呼ぶ」「ゾードロープ」「川を挟む糸電話」、物語のモチーフもそれぞれ少女趣味である。男性的で無骨な感性とは縁遠い脚本の組みかたは、鈴愛がのちに少女漫画の道に進むこととなる道筋と上手に呼応している。

それは、まるで詩を読んでいるかのような台詞や、登場人物たちの行動と相俟って、とても小さな非日常をくれる。

─鈴愛が、卒業おめでとう、という言葉に寂しさをおぼえるなか、最後まで泣かなかった律に思う「律の心の真ん中は、遠いのかもしれない」。

─落ちてきたバドミントンのシャトルに律が感じる「小さな白い雛鳥が手のなかにいるみたいに見えた」。

─高速バスで東京に向かうとき、見送る家族に向けて後ろの窓に息をハーッと吹きかけて鈴愛が指先で書く「大好き!」。

毎日一篇ずつ、非日常の世界の人間の小さい詩を受け取っているようで、それがとても新鮮だったし、楽しかった。


不完全ゆえ憎めない登場人物たち


『半分、青い。』には、完璧な人間が一人もいない。どの登場人物にも、ささやかな落ち度や、とりとめのない過ちがある。

主人公の鈴愛は、夢を持ったり、それに向かってまっすぐに進む力強さがあるが、あまり空気が読めないし、他人の気持ちのセンシティブな部分にずけずけと踏み入ってしまう。幼なじみの律は、容姿端麗だが自分に自信がなく、とても傷つきやすい繊細すぎる側面を持っている。ウーちゃんは明るいムードメーカーだが少年っぽい向こう見ずな感じがあるし、ハルさんは娘思いだが過剰に心配する癖がある。

肩に仔猫を乗せて登場したまぁくんは、優しいけど女たらし。鈴愛の夫になった涼次は、鋭い感受性で気持ちを表現できるが、それゆえか「家族は邪魔になる」自分の夢を選び鈴愛と花野を捨ててしまった。

どこか心をかき乱す登場人物たちを、様々なアプローチから描き取ることで憎めない魅力に置き換え、短所や欠点も次第に愛らしく思えるような脚本に仕上げている。

ドラマや映画を観る者としては、台詞や行動の機微、物語における行間や空白を読み取ることで、彼らがどんな人間であるかを想像するが、そういう点では、非常に想像しがいのあるドラマだった。

最初からわかりやすく性格のすべてを表現せず、物語が進むにつれ徐に、ときには唐突に別の側面が顔を出すので、「鈴愛、そんなこと考えてたの…?」「ウーちゃん、そういう感じでもあるのね」と、上書き保存を何度も繰り返しそのひとの人物像をつくりあげることができた。

とくに、律。

佐藤健の演じる律は、大学時代に鈴愛が律に好意を示しても、「青春を謳歌したい」などというふざけた理由でそれをかわし、ヒロインの王道である弓道部に所属する清(さや)と付き合う。そこから長い年月を経て、鈴愛と律は社会人となり東京と大阪に離れてしまう。やがて、地元・岐阜で再会したとき、突然「鈴愛、結婚しないか」とプロポーズするのだ。

ふざけるんじゃあないよ。

と、思わず叫びたくなる律の言動だが、繊細な律を、しかし我々は責めることができない。鈴愛にキスをしたあとを「鈴愛のテンションに任せるよ」などとたわけていた律であるが、最終回でなんとか自分を奮い立たせて「鈴愛を幸せにできますように」と伝えられたとき、視聴者のなかの母性がいつの間にか律のあたまを撫でているのだ。プロポーズから最終回までに、律がどんな人間であるかを示す──上書き保存できるような──エピソードが、何回も挟み込まれた。こうして、ひとりぼっちで繊細で俯きがちだった萩尾律の成長を、我々は見届けるのである。


夢を追うときと、それを諦めるときと


そして、『半分、青い。』のパブリックイメージをつくりあげた北川悦吏子である。賛否のわかれたこの脚本だが、個人的には賛。むしろ絶賛。

とりわけ「漫画家」や「エンジニア」という、なにかをつくる仕事のやりがいや楽しさ、また一方でそこに定住する残酷なまでの厳しさを、おそらくは自身の経験をもとに、真っ向から立ち向かって書いてくれた。

鈴愛は漫画家を「ぜったい天職だ」という気持ちで目指す。実際鈴愛は、シーンに関してはとても独創的に思い描くことができ、才能はあるはずだった。けれど、ネーム(物語)がどうしても思いつかず、漫画家を続けることが苦しくなり、その道を諦めてしまう。

鈴愛が漫画を描けなくなって、師匠である秋風羽織に「どうしていままでみたいに、私に描けと言ってくれないんだ」と言って感情を爆発させるシーンのことを、主題歌を手がけた星野源は「いちばん好き」と語る。ゼロからイチにする作業というのは、どんな内容であれラクではない。産みの苦しみ、というようなものがある。僕でさえ「これは、努力しても、これ以上良くはならないかもしれない」「良くするためには、途方ない時間が要るような気がする」と思ったときの、自分を見損なう残念な気持ちはなんとなく忘れられないでいる。

鈴愛が漫画家を諦めるあたりでは、現職の多くの漫画家が「あきらめる必要なんかない」「努力すれば物語だって描けるようになる」と発言した。それは、僕もそう思う。でも一方で僕は、もしかしたら現実に、「神様にNOと言われる」という、そういった残酷なこともあるのかもしれないと思った。それは、この物語に初めて教わったことだった。

鈴愛が感情を爆発させるシーンも好きだが、ユーコが、「『お前じゃダメだ』と(神様に)言われるとしても、手を伸ばしてもがく、それが人生じゃん」と言った回は、観ていたら涙が出てしまい、とても驚いた。「何者か」を志すなかでは、本当に様々な葛藤と諦めがある。人生という長い世界観を持ったとき、僕は「なにかになった者」でもあるし、「なににもなれなかった者」だとも思う。だとすると、鈴愛の挫折はクリエイターだけじゃない多くの人間に響いたのではないか。星野源のようなトップクリエイターですら、鈴愛のあの挫折には共感しているのだ。

そこから、鈴愛はなお積極的に生きようとした。無理をすれば漫画家を続けられたかもしれないが、「私は、自分の人生に、晴れの日を増やしたい」と言って、非常に前向きに、諦めた。強がりだったとしてもその生命力の強さには感嘆したし、その後、彼女が新しい夢に向かって挑戦していく姿も清々しかった。


病気と死の描きかた


北川悦吏子が難病の重い症状を抱えて、それと共に生きつつ書いていたドラマだったせいなのか、このドラマでは容赦なくひとが亡くなった。律の母親である和子さんや、鈴愛の祖父・祖母、そして鈴愛の親友であるユーコ。

僕は2年前に祖父を亡くしているが、このドラマの病気や死の扱いかたは、非常にリアルだと感じた。

「はからずも身近なひとの死に早く直面せざるを得なかった」ひとは、実はたくさんいるのだと思う。そして、その気持ちはなかなか他人と共有できない。家族とすら難しい。「亡くなったひとと自分」の関係性が一対一である以上、他の人に分かってほしいと思っても無理であることも仕方ない。だからひとは、実はそういった死について、ひっそり心の奥のほうに抱えて、生きている。

律が和子さんを送った描写については、ただただ本当にリアルだった。「なにをどうしていいかわからんくて」と言った律の気持ちは痛いほどわかったし、そんな律の気持ちを慮って「苺を買ってきて」とワガママを言ってあげる和子さんの優しさも、痛いほどわかった。ただ、律は、「僕はあなたの子でよかった」を、キチンと伝えることができて本当に幸せだったと思う。死なれてしまってからでは、なにも伝えることができない。

震災描写は賛否両論あったようだが、先に書いたように「はからずも身近なひとを、早くに亡くした」ひとは、本当にたくさんいるのだ。このドラマではそんなひとたち、どこか心の奥底で「まだ悲しみ足りない」と思っているひとたちに、(だれかの、あるいは自分にいずれやって来る)死との付き合いかたについて、メッセージしたかったのではないかと思った。

それを受け取るかどうかは、そして僕たちの自由でもある。


非の打ちどころがない星野源の主題歌


きわめつけは主題歌である。

星野源の「アイデア」。聴くと、星野源は『半分、青い。』という朝ドラを完成させる決定打を真芯でとらえていたことに気づいた。

星野源は最初の3話分の脚本を読み、この「アイデア」を書き下ろしたという。

「おはよう」「鶏」といった朝を象徴するキーワードを盛り込みつつ、「線路」や「風」などの行き先のない言葉で展開することで、冒頭にして物語を具象化している。「モノラルのメロディ」という表現は鈴愛の病気を意味している。どんな「雨」が降ったとしても、「青空」はやがてくるストーリーに、後付けだろうが、『半分、青い。』の最終回のタイトルは「雨のメロディ」である。のちに出てくるサビの「塞ぐ」という単語も、「道を」という意味もあるが、鈴愛の「片耳が聞こえない」という設定にも関連している。

「おはよう」(Crazy Crazy)、「湯気」(湯気)、「生活」(SAKEROCK「生活」、エッセイ「そして生活はつづく」)、「つづく」(Continues)、「越えて」(恋)、など、星野源のこれまでのディスコグラフィーから歌詞を拾って書かれていることで、星野源の名刺がわりにもなる楽曲となっている。星野源がこだわりを譲らないマリンバも使用され、イントロだけで「あ、星野源の歌だ」とわかる。そういうアイデンティティをぶらさない星野源は、やはりトッププロだと思う。

1番とは打って変わって2番はダンスビートに抑えめの歌唱、その後ギター弾き語りもあったりと、この歌は構成のユニークさでも話題を呼んだ。その構成は、二転三転する鈴愛の人生と、嘘みたいに重なる。ドラマでは尺編集で1番しか流れないのが、口惜しいくらいに。

喝采中傷を同時に呼んだドラマにおいて、最後のシーンは、鈴愛が待ちわびた雨が降り、その雨音を聴きいる場面で終わる。星野源が、揺るぎない自我のなかで『半分、青い。』という物語を徹頭徹尾支えているとき、「雨の音で歌をうたおう」と表現した星野源の歌詞に、物語もまた寄り添っているのだ。

『半分、青い。』の、紆余曲折を通過した脚本にどうしてもハマらなかった最後のピースは、実は第一話から流れている星野源の「アイデア」だったのかもしれない。最初からあった最後のピース、その一部始終を完成させたのは、結局は「アイデア」が、ポップスとして物語として、非常に優れていたと言わざるを得ない。


おわりに


ロールシャッハテストがごとく、観るひとの評価がわかれた朝ドラだったと思う。僕も観ながら引っ掻き回されてヘンテコリンな気分になった。

それでも、これまで書いたように登場人物含め物語はとてもチャーミングで、どの場面にも愛する理由を見つけることができた。ものの見方で鈴愛の半生がたとえ踏みにじられたとしても、「にこやかに中指を」突き立てていこう。雨の音は、つづく日々を奏でるひとは、それでもたくましい。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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