フレディと一緒だ… いまを生きる“本気”がクィーンに挑んだ『ボヘミアン・ラプソディ』

2018/11/23

movies music 感想

t f B! P L

「圧巻」という言葉が僕らを巻き込んだうえで成立する快進撃なら、それらが終わったあとの疲労と空腹も、「とんでもないものを観ていたんだな」という抽象観念さえも、とてつもなく気持ちいいもんだな。そして、ロックスターの誕生と成功と挫折と再燃が、たかが2時間の物語に集約できるとするなら、この映画はきっとかぎりなく純度の高いストーリーで、始終隅々と描かれきっていたんだな。

不純物が混ざり込んでないと言ったら嘘にはなる。ドラマティックに仕上げるためか時系列の弄られた史実があったり、場面によってはもっとスキャンダラスな騒ぎになってたような気もする。そもそも主演のラミ・マレク、フレディにあんまり似ていないし。

ただ、これについてはブライアン・メイ本人が「伝記映画ではない、アート作品である」と発言するように、史実を基軸とした創作映画だという割り切りは意外と素直にできる。『ソーシャル・ネットワーク』で描かれたザッカーバーグや、『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐みたいに、事実と創作の結合によるどこかケミカルな力がはたらいて、感情は不思議に動かされる。

史実と異なる時間軸も描写も、ドラマに過ぎない些末なことで、本当にそんなことはどうだっていい。たとえ事実を引き合いに出したところで、映画を観終えた感傷にさして痛みがない時点で、製作陣に軍配だろう。

ロックバンドってやっぱりいいなぁとか、家族ってなんだっただろうなとか、どういうかたちであれ家族ってあたたかいなとか、あたまのなかで様々な感情が渦巻いて自己と混ざっていく。そのすべてが、クィーンの楽曲に反映されて心の真芯に打ちつけられる。

劇中で描かれたフレディの生涯を介して、自分の半生も同時にクィーンのバイオグラフィーに吸収される気がした。あのとき自分を支えてくれた彼や、いっさい連絡をとらなくなった彼女とか、そういうひとたちに足場を与えられて立つことができた自分と、それをそうとは知らずに自尊心と承認欲求で満たされたい気持ちを選んだ自分と。悪意はないけど突き放したひとたちに、どう立ち回っていいかわからず苦しんだ数年間。エゴと、憂鬱と、プライドと、後悔と…。

きっと、フレディと一緒だ。フレディが、ぜんぶ飲み込んでくれる。

それはだれよりも独りぼっちで、それゆえの苦悩と葛藤を両手に持ってたからなのか。それでも、マイノリティが、彼の信じるものを貫徹したときの美しさから、「死の美学ってなんだ」とか「幸せってなんだ」とかを学ぶ僕らもいて。

独りぼっちのフレディにも、バンドがあって、家族がいる。愛してくれるパートナーがいる。放してくれない理解者もいる。それが彼の歌となって、それがクィーンの曲になって。

冒頭のシーンで、ライブ・エイドへ向かうフレディ。その約2時間後、物語を経て、おなじカットでバンドメンバーとステージへ向かうフレディ。アイアムじゃない、ウィーアーなんだよね。ウィーアーザチャンピオンズ。ちゃっかりU2とすれ違ってるあたりが追求したこだわりを感じる。

劇中でフレディがエイズに冒されていることを知っているのは、鑑賞者である僕らと、メンバーのみ。そんななか、心配とともに顔をあわせるクィーンのメンバー。フレディのピアノからはじまる『ボヘミアン・ラプソディ』の「ママ、僕は死にたくないよ。たまに思うんだ、生まれてこなければよかったとさえ」。 そして歓喜とともにうたいあげる『Radio Gaga』の「ラジオよ、聞き流される雑音になんかならないで。少年少女にとってのバックグラウンドサウンドに成り果てないで」という歌詞たち。なによりも、つくられた振り付けではない、フレディを体に染み込ませて動いた結果のラミ・マレクのパフォーマンス。

挙げていくともはやフレディがうたいあげた言葉とサウンドの一言一句に意味があり、役者の演技や機材の位置にいたる一挙一動にクィーンが宿っている。

どうしようもないくらいに美しいロックバンドの美学はもちろん、クィーンというひとつの歴史にまつわる完璧に近い建築美を感じる大作。いや傑作。

The show must go on.

Queen must go on.

劇場で。可能なかぎりの爆音で。




2018年12月30日 追記(長いよ)

3週目を過ぎても売り上げが落ちず、ロングランを続ける『ボヘミアン・ラプソディ』。あらためて作品性について感想。

かつては音楽を聴かないひとはいなかったし、音楽の凄みをみんなが解っていた。そして2018年の現在、エンタメのいちジャンルに過ぎなくなった音楽にのめり込んでいくひとは本当に少ない。実際そこでこの映画を観て、音楽映画として「すごいな」「いいな」と思えることは決して見過ごしてもいいことではない。観るべき作品だと改めて思う。

時代性もあるのだろうけど、彼らは、自分たちを「ミュージシャン」でも「アーティスト」でもなく、お客さんに対してなにを見せるかという「パフォーマー」という表現を使った。だからこそのシンガロング、ハンドクラップだと思うし、それが生まれた瞬間をこうして映画で観られるのは幸せだった。個人的に2018年のいま僕は「手拍子いらない」「シンガロングとかダサい」という考えを多かれ少なかれ持っていて、でもそれはクィーンが生み出してからそれらが礎として文化に根付いて、何十年という歳月をかけてこうして極東の島国へ流れ着いたんだと考えると感慨深い。

史実と異なる時系列については本当に些事にすぎないと思えてしまう。映画をフィクションとしての語り口でつくるにあたって非常に丁寧で、クィーン、というかフレディ・マーキュリーという母体をもとにエンタメ映画をつくるという事態に、相当量のことが考えられてあの脚本になったんだなと思わせてくれるし、それが透過して見えれば作品としてかなり優しい。実際にメンバーの承諾を得たうえで成り立っているなら、それも方法論のひとつだろう。

レコーディングや、音楽をつくることに対する誠実さと執念を感じた。『ソラニン』や『リンダ・リンダ・リンダ』や『BECK』を、いま一度『ボヘミアン・ラプソディ』と比べてみるのもおもしろいかもしれない。

わりと古いイギリスなのにウェンブリースタジアムの上空から観客のアップまでワンカットで撮る図式は随分と現代風だなと思う。それは、フレディの弾くピアノのうえにあるペプシコーラの紙コップに入ったドリンクやビールの配置があれだけ計算されていたことも考えると、「映画を観たひとは絶対YouTubeで当時の映像さがすよね」って流れをしっかり読んだうえで踏まえられた演出だったんだろう。そういう2018年の時代観もとらえて撮影が行われたことは現代に生きる我々がリアルタイムで観れたことに喜びを感じさせてくれる。

「パキ(スタン)」「ゲイ」「ゾロアスター教」「出っ歯」などがわざわざ字幕で表示されたことで、フレディへ向けられた差別の視線を明確にしている。ただ、音楽モノのドキュメントでありがちな「コンプレックスの裏返しとしての才能の発露」がなく、LGBTQや多様化、グローバル化に全員が理解を置きつつある現代に、コンプレックスが才能に結びついてることを直接的に表現しなかったことは英断だと思う。生活が乱れたシーンを「病気だから」とかではなく単純に「成功からの転落のシーン」として描いたのは見事だった。監督のブライアン・シンガーがセクシャル・マイノリティであることもひと役かっているだろうけど、そこが物語の核になっておらず、観る側が偏見を持ち込まずに観れたこともあって、嫌味を感じさせない。

最後に、僕の最初の「ボヘミアン・ラプソディ」体験は、映画『ウェインズ・ワールド』でマイク・マイヤーズたちがカーステで流しながらカラオケしているあの有名な場面だ。今回の映画『ボヘミアン・ラプソディ』で表題曲のシングルカットを最後まで反対した社長を演じたのも、マイク・マイヤーズ。なんだ、最高かよ。愛であつまってつくった映画じゃん。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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