1966カルテット、ステージを観ながら思ったこと

2018/12/15

music 感想

t f B! P L


ヴァイオリニストが「アンプ忘れた、どうしよう!」って言うものだから、「へぇ~、ヴァイオリンでもアンプって使うんだ~」と感心していたら、『暗譜』でした。こんばんはれおですけれども。

いやー、ライブ納め。いまの「いやー」はべつにYearとかけたわけではないんだけど、文字どおり今年観る最後のライブであった。

1966カルテット、何年ぶりだろう。3年ぶりとか? わからないけどとにかく「3年ぶりに観るステージ」のぶんはおおいに魅せてもらった感じがしてる。ただ、例において全部を書き残そうと思うととても疲れるし時間のかかることなので、印象的だった曲だけ感想ぶちまけるよ。いまの気分はホテルの窓からテレビを投げ捨てたミック・ジャガーですもの。

M-12 Video Killed The Radio Star (The Buggles)

ラジオスターの悲劇。つい最近まで自分も弾いてたのが嘘のような素敵なアレンジ。楽器が違うからあたりまえなんだけど、引き算の美学で言えばロックバンドとはまったく別の組み立てかたをしてるんだな。

たとえばアコースティックギターみたいな和音で鳴らすことが前提の撥弦楽器の弾き語りであっても、単純なパターンのストロークだと飽きちゃうからアルペジオとかブリッジミュートとかをどこで入れてくか、しらたま系の流しかたをどうするかみたいなことを考えて、ひとりオーケストラ的にどこかに最大音量を持ってきて、かつ通奏低音がアイデンティティとして始終鳴っているアレンジを引き算で考えていくけど、3人の擦弦楽器と鍵盤のアンサンブルでどこを引き算してくかは、弾き語りだったり、ギターとベースとドラムだったりにはない考えかたをしてるはず。

あくまで算数で喩えるなら、場合によっては足し算もしてて、それが結果的に積となって掛け算になる、バンドアンサンブルの魔法みたいなことが起こってる。とても観ていておもしろいし、とても観ていて勉強になるような、はたまたわからないような、その混沌を楽しむというか、まぁ最終的には楽しかったで終わらそうか。

M-6 Layla (Eric Clapton)

オリジナル音源とならび、MTV Unpluggedでのアンプラグド音源も支持されているこの曲。クラプトンのライフタイムベストにも両方ともに収録されている。正味「選べない」この2つのアレンジを、喧嘩を起こすことなく同居させた。ピアノイントロがアンプラグド音源のそれだったので、聴いた瞬間に拳をにぎった。

この歌をエレキギター抜きにしてカバーするには、それ相応の工夫趣向を凝らさなければいけない。クラプトンのあのギターリフは、それくらいこの歌の命であり、それくらい存在価値がある。ほかの楽器じゃ正直代替がきかないし、だからこそほかの楽器でカバーするには「どういう導線を確保するか」「聴覚の回路をどう組み立てるか」「いっそリフをまったく弾かない」とか色々様々な手段で曲をひとつの建築物として成立させなければならない。それをするにあたり、観客の拍手と指笛が聴こえてきそうなアンプラグドver.から導入したことは、正解か不正解かはさておいて「わかってるんだな」と思う。

M-8 Bohemian Rhapsody (Queen)

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観て、狂気にも近いクィーンの本気の再生を目の当たりにしてきたなかで、あの歌を演奏するのはそれなりの重圧もあったと思う。でも、それ以上に、2018年12月のいまこの瞬間に、あの歌を演奏することを楽しんでいるようにみえた。

どうしても弾きたい、演りたい!と花井さんが松浦さんに真夜中の迷惑メールを送った気持ちが正直なところなんだろう。価値が見直されているもっとも旬な曲のひとつに、純粋に取り組んでみようという姿勢は、素直なまま音楽を演奏し続けるための一種のヒントなのかもな。

改めて聴くとアレンジは、減法の差で考えるならクィーンが──たとえば映画劇中で見せたような──手法とはまったくべつのベクトルから引き出してきたんだろうなとは遅ればせながらようやく気がついた。ステージの下からは想像を絶する試行が繰り返された結果の魅力なんだろうな。

M-13 Don’t Look Back In Anger (Oasis)

プログラムを見たとき、「この曲かぁ」という気持ちが良い意味でも悪い意味でもわいた。それはオアシスのこのビッグアンセムにたいする素直な敬意と、仲違いを繰り返しながら後ろ手に腕を組み最前でうたいつづけてきたリアムへの感謝が共存した結果の、複雑で模糊とした気持ちだったなといまとなっては振り返れる。

ただ、そんな気持ちは杞憂だった。

イマジンをオマージュしたピアノイントロがギターリフをはらみながら展開され、さぁ歌がくるぞ!というときに、松浦さんが弾きはじめたのは「Whatever」のイントロだった。花井さんが続けて“Slip inside the eyes of your mind”とヴァイオリンで唄うとき、さきに書いたこの「Don’t Look Back In Anger」への敬意と、リアムのうたう「Whatever」への感謝がつくった曖昧な浮遊感はもはやその瞬間ただちに霧消して、純粋にビッグアンセムに体をゆだねることが許された気がした。

このひとたちなら、安心してロックバンドのカバーをまかせられる。どこからかそんな物言いを身勝手ながら感じる自分もいた。ぜんぶ、汲み取ってくれる。ぜんぶ、拾ってくれる。ぜんぶ、あたえてくれる。

松浦さんの弾く「Whatever」のリフレインは、途中でやむどころか始終鳴り続けた。それはノエルがうたうオアシスの代表曲に、後ろのほうでタンバリンも叩かずにたたずむリアムが、間違いなくオアシスのボーカリストであることを証明しているようだった。アウトロで一瞬「Whatever」を展開して「Don’t Look Back In Anger」に回帰する流れのなかに、れっきとそこにリアムがいた。

ノエルはかつて「日本人はどうしてだかWhateverが好きなようだ」と感想を述べたことがある。カノン進行の闊歩するJ-POPに馴染み深い我々日本人がオアシスのカバーをするにあたり、「Whatever」の意志を組み込むことそのものに、個人的におおきな意義を感じる。

EN-1 Can’t Buy Me Love (The Beatles)

そしてなにより、1966の数字を冠してビートルズを演奏するすがただった。表情、動きにくい衣装での身振り、足癖の悪さも全部込みでビートルズを演奏してるときがいちばん楽しそう。言葉どおりの「原点」を大切にすることもとても大事だし、その根底に流れる精神は正真正銘にロックバンドに通ずるものがあると信じてる。

計り知れないものを背負ってか、純粋に海の向こうの権威への憧れか、どの正体かとても楽しそうにロックミュージックを演奏する1966カルテットは、まぎれない「ロックバンド」だと思う。リスペクトのしかたをわきまえたうえで、アイデンティティを微塵寸分ぶらさない。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観て、クィーンに興味をもつ中高生がいるなら、1966カルテットを聴いてオールドロックを聴きはじめるひとがいたってなんら変哲ない。あの映画はそれくらい狂気だったけど、このひとたちもそれくらい本気だ。敬意というかたちで表現する愛が映画であれ音楽であれ、それらを受けとるひとはかならずどこかにいるし、それらが届く場所にかならず未来はある。

2018年のライブ納めが、こんなにも素敵なクリスマスプレゼントであることを、贅沢と呼んだところでいったいどこに差し支えるだろう。これ以上のものを期待してはいけない気がするけれど、これ以上のものを返してくれそうな予感もしてる。それは正解でも不正解でもないけど、間違ってもいないんだよなぁ、きっと。

このブログを検索

自己紹介

自分の写真
好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ