米津玄師の「パプリカ」、だれを応援してんの?

2019/01/19

music 感想

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米津玄師の「パプリカ」が2020年を応援しているらしい。

正確には米津玄師名義の楽曲ではなく、「<NHK>2020応援ソング」というNHKのプロジェクトに書き下ろした新曲で、作詞作曲編曲とプロデュースを米津玄師が行なった。うたうのは小学生が集められたFoorin(フーリン)という男女混成の5人組。楽曲のコピーは「2020年とその先の未来に向かって頑張っているすべての人に贈る応援ソング」とある。

米津玄師が応援ソング?

音楽的に彼のフォロワーをやってきた人間ならわかるのではないだろうか。この違和感というか、ネーミングと実態が乖離しているというか、なんとも言い知れぬ腑に落ちない感覚。少なくとも「米津玄師」、あるいは「ハチ」という看板を背負って彼がうたってきたディスコグラフィーには見あたらない類いのジャンルである。

「応援ソング」はJ-POPにおいて紛れないカテゴリーのひとつだ。中島みゆきや長渕剛が「ひとの背中を押す」という概念を歌に持ち込んでから、かつてはMr.Childrenが「終わりなき旅」でもっと大きなはずの自分を探したかと思えば、ZARDは「負けないで」と声高らかにうたった。DREAMS COME TRUEが「何度でも」で10001回目の君の名前を呼ぶとき、ゆずはもう迷わずに「栄光の架橋」へと進んだ。現在ではWANIMAや竹原ピストルなんかが、世のなかでどうしようもない苦悶と葛藤に閉じ込められる人間ひとりの心の奥底を持ち上げ続けている。

こういった、立ち止まっているひとを後押しする歌を、米津玄師はこれまで自身のアイデンティティのなかで大きく扱ってこなかった。

しかし、「パプリカ」を聴いてみると気づくことがある。わかりやすく実直に「応援ソング」にありがちな、「あきらめず」とか「もう迷わない」とか、あるいは「さあ行こう」みたいな、身も蓋もない言いかたをすれば「がんばれ」に類する表現が一切排されていた。

排した、という表現は、しかし不適切だろう。米津玄師は、もとよりそういった「がんばれ」に類する表現を手法として取るつもりが、さらさらなかったように感じる。歌詞だけではなく、曲調やコード進行からも、個人的にはそう思う。

ただ、それはたしかに効果的に作用している。

曲りくねり はしゃいだ道
青葉の森で駆け回る
遊び回り 日差しの町
誰かが呼んでいる
夏が来る 影が立つ
あなたに会いたい
見つけたのはいちばん星
明日も晴れるかな
パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種をまこう
ハレルヤ 夢を描いたなら
心遊ばせ あなたにとどけ
(パプリカ / Foorin)

曲構成自体は、Aメロ、Bメロがあって、サビがある、非常にクセのないオーソドックスなものである。それも、Aメロは情景描写、Bメロは心情描写という、子どもが読んだとしても明け透けなくらいトリックのない直接的な技法だ。そこに、米津玄師とFoorinの、「大人と子ども」という親和が、違和感としても対称性としても、レトリックとして機能している。

子ども時代の憧憬のなかで、「あなたに会いたい」と願う。純朴なまでに実直な表現が、それゆえに切実に聴こえる。この段階で「願い」というのが具体的にどういったものなのかはまだ明示されていない。せいぜい「夏が来る」という歌詞から、夏季オリンピックに向けた意図が少なかれ込められていることを拝察する程度じゃないだろうか。

「影が立つ」の影とは実態のないもうひとりの自分の存在であり、自在に伸縮する無限の可能性の象徴でもある。そこに顔がないことは未だ見ぬ自分の未来像を表しており、オリンピックに向けた未来のアスリートと、そしてそれはリンクする。

雨に燻り 月は陰り
木陰で泣いていたのは誰
一人一人 慰めるように
誰かが呼んでいる
(パプリカ / Foorin)

この「誰か」だが、1番にもおなじフレーズで登場している単語である。1番では、なにかに向かって無邪気にひた走る子どもの情景と接続することによってあまり気に止まらないよう工夫がされているが、2番では「複数人の泣いている人物に語りかける存在」として意識的に「誰かって、だれ?」と登場人物として心に引っかける仕組みになっている。この「誰か」だが、僕は「大人になった自分」であると考えている。

喜びを数えたら
あなたでいっぱい
帰り道を照らしたのは
思い出のかげぼうし
(パプリカ / Foorin)

一曲をとおして、Aメロで「誰か」の存在を示唆し、Bメロとサビで感情の対象を「あなた」と断定している。歌詞の随所には「思い出」や「過去」をほのめかす表現が隠す様子もなく使用されていることからも、この考えは正しい気がしている。

オリンピックは、視聴者目線で見れば、大人も子どもも隔てなく競技に一喜一憂する4年に一度のイベントである。そして、出場者の目線で見ても、子どものころから不乱に競技を追求し研鑽してきた者のみが機会を得られるスポーツの祭典である。オリンピックというこの舞台に、子どもから大人に成長する人生の通過を特別な意味で含ませることは、米津玄師なら無意識にでもやってのけるだろう。歌の進行とともに大人になる自分への希望、もしくは将来への期待だろうか。それらを逆行させることなく調和させた見事な流れである。

「パプリカ」は「他の誰かを応援する曲」ではない。2020年に向けてのNHKのプロジェクトではあるけれど、アスリートを直感でイメージさせるような描写はひとつもない。そういう意味では、たとえば近年でいう安室奈美恵の「Hero」やSEKAI NO OWARIの「サザンカ」とは全然違う。

この「パプリカ」だが、一体だれをどう応援しているのか。それは、米津玄師が菅田将暉を迎えてうたった「灰色と青」を聴くと見えてくる。

君は今もあの頃みたいにいるのだろうか
ひしゃげて曲がったあの自転車で走り回った
馬鹿ばかしい綱渡り 膝に滲んだ血
今はなんだかひどく虚しい
(灰色と青 / 米津玄師 + 菅田将暉)

どれだけ背丈が変わろうとも
変わらない何かがありますように
くだらない面影に励まされ
いまも歌う いまも歌う いまも歌う
(灰色と青 / 米津玄師 + 菅田将暉)

この歌で表現されているノスタルジー、たとえば「ひしゃげて曲がったあの自転車で走り回った」は、「パプリカ」でうたわれる「曲りくねり はしゃいだ道 青葉の森で駆け回る」に、表現的にも観念的にも、どこか通じるものがある。

くだらない面影に励まされ
いまも歌う いまも歌う いまも歌う
(灰色と青 / 米津玄師 + 菅田将暉)

「灰色と青」を鑑みると、「パプリカ」で米津玄師が言いたかったことはわからんでもない。「パプリカ」は過去のJ-POPにカテゴライズされた「だれかを応援し、背中を押す歌」ではない。「大人になって、立ち行きならん現実を受け止めきれない自分を、励まし、そして奮い立たせてくれる、子どものころの幸せの記憶」だ。

曲を聴いていくと、最後のサビで、米津玄師本人によるコーラスが入っている。ひとりの人間が、最終局面までその信念を貫徹したとき、必ず「あなた」に会える。大人になった自分がいちばん星となって待っていることを、Foorinとの親和をベースに米津玄師は身をもって証明しているのだ。

そして、「サンタマリア」や「花に嵐」などに顕著だが、米津玄師は「花」という言葉にある種の救いを求める傾向がある。

パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種をまこう
(パプリカ / Foorin)

パプリカの花言葉は、「君を忘れない」。

米津玄師は、現在進行の「いま」を応援するのではなく、それを支えているかつての思い出や、暗雲の立つ上空にかつて紛れなく存在した青空、そして、過去のうえに成り立っている現在という事象を「大人と子ども」という対比を通して美しくかたどっていたに過ぎない。そしてそれは正確な意味では「応援ソング」ではないかもしれない。しかし、自分を鼓舞するれっきとした過去を間違いなく持っている者にとっては、無上の追い風になる歌であることも、同時に真実なのだ。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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