戦争? 環境破壊? ナウシカの呼んだ奇跡が、奇跡でもなんでもないってことだ

2019/02/11

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戦後日本では、急激な経済成長が人々の生活様式に大きな変化をもたらした一方で、大気汚染や水質汚濁などの公害を招いている。日常生活からやってくる都市生活型公害で、一般市民も環境破壊の加害者となっていた。そして1972年に採択された「ストックホルム宣言」以降、天然資源の枯渇、地球温暖化、オゾン層の破壊等、環境破壊は地球規模で問題視されており、2019年の現在も、それは大きく足踏みしている。

1960年代に勃発した、朝鮮やベトナムでの米ソの代理戦争では、緊張緩和が70年代になって進められたが、ソ連のアフガン侵攻や、イラン・イラク戦争を巻き込んで、アジアや中東、東欧まで飛び火した。その火種は、80年代になってアメリカによる西側陣営とソ連による東側陣営に分かれ、「東西冷戦」として核開発が進められた。

1984年。この映画は、そんな時代に生まれている。

「環境破壊」と「戦争」とを、この映画に反映させて観ることは容易どころかもはや当然だろう。それは義務と言うに近い、現代人の進まぬ課題である。

作中の大きな世界観を担う「腐海」の存在が、現代人の抱える「環境汚染」の代理表象だとして、ナウシカの生まれ故郷である「風の谷」をめぐるトルメキア帝国の思惑と、それに対立するペジテの策略が当時の「冷戦」から着想を得られたとするなら、我々はやはりまだこの混迷から脱却しきれていない。本作の世界観は、公開から35年を経ようとしているいまも、鏡のように現代社会を投影しているのだから。

「また村がひとつ死んだ」ほぼこれだけの台詞でユパを見送るカメラワークがそのままスライドし、腐海に飲まれつつある巨群の建築ビルを映す。思考と考察が逸る絶妙なタイミングでOP「風の伝説」が流れると、文字説明で「巨大産業文明が崩壊してから1000年…」とテキストが表示される。時間にしておそらく2分足らずである。

これが、ナウシカの世界なのだ。「文明の崩壊後」という文字数の多いストーリーを、これだけで提示して見せる演出は、その後に続く映画表題と、メーヴェに乗って滑空するナウシカの姿をとらえるまでに至り完璧であり、ありとあらゆるすべての映画のお手本と言っても過言ではない。「映画が、はじまる」息を呑むその瞬間に我々はすでに宮崎駿の手中にあるのだ。

マスクをしなければ肺が腐るという瘴気、荒涼とした腐海の風景のなかに胞子に覆われた骸骨。かわいらしい人形が粉々に散る場面など、「環境破壊」が主題の作品のなかでもトップクラスのディストピアである。その警鐘はまだやむこともなく鳴っているのだから、そのぶん痛烈である。

しかし、その腐海の存在は環境破壊の結果の惨劇としてだけではなく、「自然との共生」を訴えるキーとなっている。ナウシカとアスベルが腐海の地下空間に見た、人間の汚染を浄化する存在としての腐海は、人間の生活を脅かしていたものであると同時に、人間を生かす不可欠の存在となっていた。そりゃあナウシカも砂に横たわり涙を流すだろう。

ここまで壮大に描かれる腐海の脅威と、その裏にある役割が示すのは、「人間は自然のなかで生かされている」という強烈な事実である。どれだけ発達した文明を築こうと、自然のなかで生まれた人類は所詮とでも言いたげに、自然と寄り添わずには生きていけないのだ。

また、風の谷をめぐって巻き起こる一連の争乱には、非戦闘員であるはずの村民を虐殺するシーンなども含まれている。戦争という大義、愛国という名分に翻弄される人間たちの姿に、世界で巻き起こる戦火へのメッセージがこれでもかと突き刺さり、そしてそれは、アニメーションだとか、フィクションだとか、そんな定義では枠に収まりきらないほどの生々しさを有している。

主人公・ナウシカは生命への愛であふれている。一種の世紀末のなかで、人々への愛情はもちろん、腐海や蟲にたいする畏敬も忘れない。風の谷を侵略してきたクシャナの命を迷わずに助けたりと、絶望的な世界観において生き生きと描写されるナウシカの愛は、まさしく主人公の持つそれである。

そんなナウシカでさえ、ひとを殺しているのだ。

命を尊ぶゆえに、父親を殺されたことに激情したということだろう。とはいえ、何人もの敵兵を次々と殴り殺すナウシカの姿は、「憎悪」という感情がいかに理性をさらって連鎖するのかという極めて本質的な的を射て示唆している。

しかし、憎しみによってよってひとを殺めてしまったナウシカだからこそ、その経験をもとに生命との対話に尽力していくのだ。もう、だれも殺したくない。その理念を貫くナウシカの姿、言動、存在感、すべてが逆説的で皮肉だが、とても美しい。

クライマックスで、「憎悪」に我を忘れた王蟲の大群をまえに降り立つナウシカの表情は、父親を殺されたときのそれとは違う。その憎しみに、真正面から向かい合うナウシカは、風の谷を守るため、王蟲を守るため、すべての命をひとつたりとも失わせない選択として、自己犠牲も厭わない姿勢を見せる。ナウシカが命でまっとうする究極の生命への愛が表現された瞬間である。

一度は死を迎えたナウシカが蘇る奇跡としての描写は、彼女が蟲を、自然をいたわってきた過去を知る我々としては、奇跡でもなんでもない。それは、現代に生きる我々人間が自然とともに生ききっていく可能性を見届ける瞬間である。

腐海の底で、ナウシカのつけていた帽子のそばに発芽した小さな木が描かれたラストシーンは、その象徴だったのではないだろうか。憎しみだけではない、自然もまた連鎖していく偶然のつながりであり、人間と自然の共生や、今後ナウシカの世界でもそれらが歩み寄るという可能性であると僕は考える。

人間が自然を慈しむべきものであり、自然も同様にして人間を生かしている。この共存関係なくして現在の人類の生活は保証されるものではないことを、ナウシカは身をもって示している。奇跡は、奇跡ではなく、人間が自ら編みあげていく必然なのだ。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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