『魔女の宅急便』でキキが気づいた愛の正体、そして故郷を離れるということ

2019/02/08

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たとえ魔女であっても、キキは特別な存在なんかではない。どこにだっている普通の少女である。

キキにはあって、普通の少女にはないもの。それは、箒を使って空を飛ぶことができるということだけだろう。キキは、普通の女の子とおなじように様々な経験をしながら、また一方で魔女という立場ゆえの苦味も味わいながら、大人の階段をのぼっていく。

この映画は、13歳の少女の成長を、「仕事」を通じて描いた物語である。13歳で魔女のしきたりに従い親元を離れ修行に励む。キキが修行へ出発する決断をするところから、ストーリーははじまる。

なぜ、キキは飛べなくなったのか?


物語の中核となる大きな疑問について「なぜ、キキは飛べなくなったのか」が挙げられる。

時系列が前後するが、「なぜキキはトンボ救出の際にデッキブラシで上手に飛べなかったのか」を、まず考えたい。魔法が未回復だったからだという理由はあまりに性急だ。結論から言うと、デッキブラシは、もともと魔法のための道具ではなかったからだというのが、僕の推察である。物語の最初に、キキの母親が箒を手渡す場面で、「嵐にだって驚かずに飛ぶわ」と言っている。つまり、箒にせよデッキブラシにせよ、魔法を使われるときは道具側にも覚悟のような心構えが必要なのだ。両者が共通に魔法に適した状態でないと、魔法は作用しない。だからデッキブラシは最初、あんなにもキキの言うことを聞かないのだ。

彼女の世界において、魔法というのは、魔女と道具の双方による理解が必要らしい。これはたとえば映画冒頭で、魔女であるキキの母親が、自分が大声をあげたがゆえに魔法薬の製薬に失敗するシーンが描かれていることなどである。つまり、魔法を使う魔女と、魔法を使われる道具の、どちらかのバランスが崩れた時点で、魔法は失敗するということだ。熟達した魔女であろうキキの母親ですら、少し取り乱しただけで失敗する、とてもシビアな世界だ。

トンボと一緒に自転車で空を飛び、彼との友情を確かめる。また同時に、華々しい洋服を着こなした同年代の女の子たちに嫉妬する。こうして、キキはしだいに心の余裕を失っていく。13歳、自立、仕事、魔法。自分に課せられた様々なタスクを抱えきれなくなったとき、キキは自分を見失うのだ。そして、それらを通じて、キキ側の問題として、箒はキキを受け入れられなくなってしまったのだとしたら筋が通る。

キキとジジの関係について


そしてそのとき、ジジもまた別の感情を覚えていた。

ジジは、キキがトンボと遊んだり、女の子に嫉妬したりしているのとほぼ同時に、近所の猫に恋心を持つようになる。そして、それはやがて恋愛関係に発展する。つまりこのとき、ジジとキキは、おなじ時間にそれぞれ別々の経験をすることで、いままでとは違った心情を持つようになるのだ。

キキが友情に目覚めたからとか、成長してジジの力が必要なくなったとか、様々な解釈がありそうだが、ここでは、エンディングテーマに注目したい。

小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた

荒井由実の「やさしさに包まれたなら」が、この映画の心象風景を代弁しているとするなら、キキは魔法そのものではなく、子どもならではの力で、言語を操る黒猫ジジをつくりあげていたと解釈できないだろうか。神通力のようなものといえば良いだろうか、それは小さい頃から身近にあり、大人になったら忘れてしまう、小さな友達のようなものだ。

社会人として、理不尽な目に遭ったり、嫉妬したり、自分の無力さに打ちひしがれたキキは、それらの苦難を乗り越える代償として、失うものがある。それがほかならなぬ、ジジの存在だった。

ただ、「やさしさに包まれたなら」には、次のような言葉も続く。

やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ

エンドロールの最後のシーンは、夜、屋根のうえでキキのとなりにジジが寄り添っている画を、背後から撮っている。屋上というのは、しばしば「隠していた本音を出す場所」として、文芸作品で扱われる舞台だ。広く世界を見渡すことができるとともに、ほかのだれもこない特別な空間。背中側を映したのも、「読者には見せられない表情」があると斟酌できる。このキキと、キキの愛するジジの、利害を超えた特別の時間を、邪魔したくはないんだ。

そう、キキとジジに、もう互いの利害関係はない。

ジジはキキに、もう人間の言語でアドバイスをくれることはない。キキにとって、ジジに有用性はもはや存在しないのだ。普通の猫になってしまったジジに、キキはなんの用もないはずだ。ではなぜ、キキはジジのそばに座るのか。それは、トンボ救出劇あってのことだ。

自立のためにキキが設えた仕事のルール


キキは街に来てから、「親切には親切で返す」という社会の基本ルールに則って意思決定をするようになった。おソノさんに部屋を貸してもらったときはパン屋の手伝いを買って出たし、ウルスラに猫のぬいぐるみを裁縫してもらったときにはログハウスの掃除が条件だった。それをキキ自身も、拒むことなく受け入れた。

おソノさんは部屋の貸与のみならず朝食をつけてくれたし、無口な旦那はキキのための看板を作ってくれた。ウルスラはキキの悩みに親身に寄り添い自身の経験からアドバイスを与え、ニシンのパイの婦人は配送料を上乗せする代金を払ったうえにケーキまでつくってくれた。基本的にはキキの周囲は、彼女の努力や親切にきちんと応えている。

しかし、クライマックスで、デッキブラシで空を飛ぶシーンだけは、キキは貫いてきたこのギブ・アンド・テイクのルールを破っている。

飛行船の事故に巻き込まれたトンボを救うべく、キキはおじいさんから強引にデッキブラシを借りる。この瞬間、街にやって来てからキキが貫いてきた「親切には親切で返す」というルールが崩れる。一連の出来事が落着してからこのおじいさんにお礼をした可能性はあるが、それが作中で描かれていないのは意味深長である。

なぜここに来て、キキはそれまでかたくなになって守ってきたルールを破ったのか。状況が切迫していたのは事実だが、キキの成長という物語の絶対方針を転換してまで、おじいさんとキキとのやり取りを描いたのは、なんらかの意図を感じる。このラストシーンまでのキキの行動は「他人から優しくされたから、自分もそのお返しをする」という一貫した理念に基づいている。

ただ、初めてこの街にやってきたキキは、トンボから無償で親切を受けている。トンボが、「ドロボー! ドロボー!」と叫んで警官の注意を逸らし、職務質問を受けていたキキを逃がした場面である。

だが、キキはその無償の親切の受け取りを、「助けてって言った覚えはないわ」と拒否する。彼女にとって、自分が対価を払えない親切を受け取ることは、大人になるために課したギブ・アンド・テイクのルールを破ることと同義だったからである。

そして最後の最後で、親切を拒んだところのトンボを、今度はキキが自らのルールを破り、無償で助ける。ここに、キキのギブ・アンド・テイクの理論は、本当の意味で完成したのだ。親切をくれた相手に応えるのは、ある意味で当然の義務である。しかし、そうでない相手にも親切にするというのは、なかなか難しい。キキはそれをやってのけた。トンボを助けた瞬間に感じる感動は、キキがこだわっていた安易なギブ・アンド・テイクの理想論に、「無償の隣人愛」が勝利を収めたことによるものだ。

ジジがしゃべれなくなったワケ


ここまで来れば、エンドロールの直前に、キキがしゃべれなくなったジジに微笑みかけた理由もわかる。

僕は、「最後にジジは再び話せるようになり、キキだけにはジジの言葉がわかった」などという、作品の描写を無視した身勝手な解釈には与しない。また、「ジジはキキの自己像の反映で、ジジが話せなくなったのは、キキが成長してそれを必要としなくなったから」という、ジジを何者かの象徴として扱うことも、ここでは不必要だと考える。物語の意味性や象徴性に目を向けすぎると、本来は感覚で受け取るべき重要なメッセージを見失うことになる。

ジジがしゃべれなくなったことで、キキとジジとの関係は利害を超えたところに存在するようになった。なぜならジジは、人間の言語を操るというキキにとっての有用性を失ってしまったからである。たいしてトンボはそうではない。律儀で優しく才能もある彼は、きっとキキが無償の愛を注ぐ対象としてだけでなく、有用性のある友人としての側面もこれから持ち続けるだろう。だが、ジジは違う。いまやジジは、意味性も象徴性も失った、ただの猫となった。

だからこそこの物語は、ほかならぬジジに向けた笑顔で終わらなければならなかったのだ。

ジジがしゃべれなくなった理由など、キキがそれまで子どもだったゆえの些事にすぎない。この映画の本質は、「それでもなお、キキがジジを愛した」という描写にこそある。しゃべることはできなくなったが、ジジがキキの大切な、愛すべき友人であるという事実は変わらない。愛する友人が、自分の肩に乗って「ニャー」と鳴けば、笑って抱きしめるのがあたりまえの行為ではないか。そしてその「あたりまえ」に、我々は胸を打たれ、涙するのである。

故郷をはなれるということ


エンディングからエンドロールまでの流れに感動する理由が、もうひとつあるが、それには、物語をすこしだけ巻き戻さなければならない。

キキが風邪をひいて仕事を休む場面で、おソノさんがミルク粥を持ってきてくれて、キキと少し話をする。おソノさんが部屋から出て行くときに、キキは一度「おソノさん」と呼びとめるが、すぐに「なんでもない」と撤回する。このとき、カメラワークはキキ側の視点である。

親元を離れて生活するということのすべてが、このシーンに詰まっていた。

おソノさんは、とても優しくしてくれるし、本当なら甘えてもいい存在になりうるひとだ。きっと、おソノさんもキキを甘えさせてくれる。それでもキキは、それじゃいけないんだと理解していたのだ。

母親とは違うし、そういう存在になってもらっちゃいけないんだとも承知してる。家族に見守られてきた自分から脱却しないといけない。そして、実際におソノさんたちは家族ではないのだという一抹の寂しさ。心に重く乗るその事実と、強くならなくてはというキキの決意には、とても共感してしまう。まして、キキは病床である。体がつらいとそういった孤独感も増すだろうに、それに負けないキキは強い。

そのキキの力強さは、エンディングまできちんと描かれる。しかし、この映画は、キキの生活と自立の、100%を描ききってはいない。

ジジは普通の猫に戻ったその後がいまもって不明瞭だし、家族への手紙にも「つらいこともあるけれど」と書いている。生活が大変なことは、街に来たときと変わっていないのだ。「やさしさに包まれたなら」が流れるエンドロールでのキキの表情は、映画が出発したときの期待に満ちた笑顔とは違う。もちろん、幸せには変わりないし、笑顔もある。しかし、どこか遠くを見るような、大人びた表情をしている。

故郷を遠く離れ暮らすというのは、こういうことなのだろうと思う。

きっと何年いても、何十年が経っても、100%を満たされることはない。ここは、故郷ではないのだから。生まれ育った場所ではないという事実は、時間じゃ決して埋まらない。ジジのことや、仕事で起こるトラブルは、自分の力ではどうしようもないときがある。それでも、友達ができたり、街のひとと仲良くなって話せたりする。まえを見ながら空を飛び仕事をする姿は、キキがきちんと努力をしている証である。その姿に我々は励まされ、その姿に我々は感動するのだ。

結び -だからキキはすごいんだ-


故郷をあとにしたキキが、遠くの街で気づいた愛、それは紛れない13歳の少女の成長であり、人間が大事にするべき尊い感情である。キキの無償の愛に心が共鳴するとき、我々の胸の奥にある幼少の憧憬がいっぱいになる。キキはすごい。大人になっても簡単には気づくことのできない心象を、13歳にしてすでに象っていたということなのだから。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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