男子校出身者が抱える青春の時限爆弾について

2019/05/15

essays

t f B! P L


僕は高校時代の3年間を、共学の公立高校で過ごした。男女比は半々ほどの、いたって普通の田舎の進学校である。母校は9クラス制を敷いており、1組から8組までが普通科、9組が理数科という分割比だった。繰り返す。1組から8組までが普通科、9組のみ理数科である。

すなわち、理数科に進学した以上は3年間たったひとつのクラスで過ごすことになり、クラス替えはない。そして僕は、この高校の理数科出身である。

3年間クラス替えがなかったことについては、不満がないどころか却って良かったとさえ思っている。このシステムにより3年で強固に団結されたクラス仲は、卒後10年を迎えようとしている現在も、集まってはガストでポテトを食べるというほどの異常っぷりである。

ただしかし、理数科であるこの9組には、女子生徒が6人しかいなかった。

そのことについて、もっと女子がいたらよかったなどと考えることは(いまとなっては)ない。それでも、ときどき考えるのだ。このクラスは、共学のなかに設置された事実上の男子校ではなかっただろうか。

少ない女子は休み時間になるとどっか別のクラスに行ってしまうし、他クラスでは学級ふたつぶん集めて行なう体育の授業も9組はひとクラスでやる。もちろん、僕には女子の友達はいたし、部活動や課外授業などを通じてクラス内に女子との結びつきがなかったといえば嘘になる。クラス内の6人の女子とも良好な関係を作っていた。しかし、見渡せば学ラン姿の制服で埋め尽くされた教室の風景や、授業の板書を取る折に視界に映る野郎どもの後頭部の連なりは、いまだに映像として僕の脳内に力強く記憶されている。

そこで、今回は僕を「男子校出身者」と広義を借りて仮定するときに、個人的に考える男子校出身者の抱えるヤバいブツについて考えたいと思う。



男子校という環境は良くも悪くも生徒の個性を野放図に伸ばしてしまう傾向にある。そのため、目立たない生徒はとことん目立たないし、オタクはとことんオタクになる。数パーセントのイケてるグループはルックスや運動神経などを武器に大学卒業後も続く華やかな交友関係の基盤を築き、フェイスブックにステータスの高いストライク球を多投する。

だからこそ、どうしてもアイデンティティの限界値が浮き彫りになるのは避けられない。

共学の普通科を見てきた僕にとって、学年のトップクラスの地位を築けるような、「調子がよく」「空気を読むのがうまい」生徒は、しかしそれだけでは男子校である理数科では埋没してしまうのだ。男子校は「一芸こそ価値」という空気感が支配的で、イケてない生徒でもなにか突出したスキルや打ち込んでいるものある生徒が一目置かれる。この「一目置かれる」という概念が重要で、男子校はメンツの世界なのだ。

僕の代にも、「意地でも水泳の授業を受けない」という一点でのみスターになった生徒がいた。強面の体育教師に「水がトラウマなんです」と言い張り30分粘った末に全授業の欠席を認めさせ単位も取得したことはいまでも語り草だ。ちなみにトラウマというのは嘘である。そしてなぜ彼がそこまで水泳の授業を固辞したのか、理由は誰も知らない。

また他方では、人間関係が面倒なばかりに入学時に「失語症なんです」と嘘をついてまったく言葉を発しなかった暗めの生徒が、1年の夏休みにマクドナルドでスマイルを振りまいていたことが発覚したときにはクラスじゅうの尊敬を一身に集めたものだ。

こうした個性を持たない生徒は男子校では潰れてしまう。男子校では早々に自分の限界を知ってしまう生徒が定期的に出てくる。「マイワールドを構築するサバイバー」と「凡庸を自覚してしまう脱落者」を、一定の割合で排出する恐ろしいマシーンなのである。



男子校が生み出すこの2種類の人間が、恋愛においていかに厄介な存在であるか、詳しく説明したい。

まず、前者「マイワールドを構築するサバイバー」は、ブレない世界観を確立してしまったがために苦戦を強いられるパターンが多い。


 飾磨は女性と付き合ったことがある。
 彼は塾講師のアルバイトをして生活費を稼いでいたが、塾生徒の女子高生をつかまえた。品良く言い直せば、職権を濫用してたぶらかしていてもうたのである。
(中略)
 梅田のヘップファイブに赤い観覧車がある。私はまだ見たことがなかったが、それは毎日若き男女を載せてぐるぐる飽きもせず同じ場所を回っているという話だった。飾磨は彼女と大阪へ出かけたついでに、音に聞くその観覧車に乗りに行った。
 順番を待ちながら、彼は少しそわそわしていた。二人の間に交わされた言葉は想像すべくもないが、はたから見れば普通のカップルに見えたろう。やがて順番が巡ってきて、彼はゴンドラに乗り込んだ。彼女が続いて乗り込もうとすると、彼は厳然とそれを押しとどめた。
「これは俺のゴンドラ」
 毅然とした台詞を彼女に残して、彼がぐるりと梅田の空を一周して戻って来たとき、彼女はもういなかった。これは本当の話である。


これは森見登美彦の『太陽の塔』に出てくる一場面だが、極端とはいえ的を射ている。たとえ女性受けする世界観であったとしても、どこかで必ず衝突あるいはすれ違うときがくる。そのとき彼女は、謎の自信にあふれた彼の決めつけに愕然とするだろう。



そして、「凡庸を自覚してしまう脱落者」である。

クレイジーでエキセントリックな生徒が多い男子校で可も不可もなにもない学園生活を送った彼らは、共学の大学に進んだときに順応が早い。共学出身者に交じって楽しくキャンパスライフを謳歌し、就活も順当に終わらせることが多い。普通に彼女もできる。おそらく普通に結婚もするだろう。

しかし、彼らのなかには高確率で「失われた青春」が眠っている。

「失われた青春」とはなにか。それは、打ち込むべきものがなにもなかった高校時代の雪辱を果たさんとする不屈のソルジャーの魂だ。部活も、バンドも、女の子も、なにもなく、個性を輝かせる生徒を横目に見ながら、なんとなく楽しくへらへらと学校生活を送ったことへの潜在意識の復讐心である。

彼らは傍観者であったがゆえに満たされない功名心を抱えている。生涯それを抱えたまま人生を終えることもあるだろう。しかし、多くの場合どこかでそれは爆発する。

「大学デビュー」というかたちで爆発させられた男は幸運なほうである。男子校で定着した陰鬱なイメージが、大学に入った途端髪を茶色に染め活動内容が不明なサークルに入り飲み会に明け暮れ夏休みには自転車で日本列島横断を試みて琵琶湖一周に落ち着くようなパターンである。

厄介なのは、それなりにネームバリューのある会社の一員となったことに妙な自信を見出してしまうパターンである。

企業名には魔力がある。一人の人間を"何者か"に仕立ててくれる魔法の装置だ。朴訥な青年を証券マンに、お調子者の男を商社マンに、気のいい男を不動産営業に。はなはなだしい場合は、名前ではなく「三井物産の彼」「電通の彼」「森ビルの彼」と呼ばれることもある。それは決して珍しい光景ではない。

こうした企業名を手にすることで、高校時代に果たせなかった「出世」を始めて果たせたように感じる人がいる。

4年越しの出世を果たした男が何を望むか。それは、高校時代に見上げていた者たちがしていたことの追体験だ。

男子校で輝いていた生徒は種々雑多なことに打ち込んでいたが、「出世」を果たした社会人になってから自分も真似できることは少ない。となると残る選択肢は、「他校の女子と遊ぶ」、これである。



結果として、"女慣れしていない遊び人"という謎の人材が誕生する。

それでも合コンを絶え間なく開けるだけの人脈や積極性があればまだいいほうで、アラサーになってもグズグズと遊びたい欲求をもてあそびながら鬱屈している男も少なくない。

そういう男がたどり着く最後の戦場が婚活パーティーだ。

彼が遊び人であることは「企業名」というアイデンティティに支えられているため、スペックは立派だ。婚活パーティーではモテるし、女性とカップルが成立する。連絡先ももちろん交換する。

しかし、話してみるとなにかが足りない。

そのあいた空虚を一律に言語化するのは難しい。女性にもジレンマがある。彼がしっくりこないのは自分のわがままなのではないかと思う。多少の欠点は我慢せねば、と思う。

しかし、僕はひとつヒントを出したい。

彼は男子校出身ではないのか?

彼は、あなたのことをまだ「他校の女子」としか見れていないのではないか?

彼がしているのは婚活でも恋愛でもなく、青春の弔い合戦ではないのか?
高校時代の話を多発させる男には注意したい。そいつがもってるのは爆弾である。爆発事故に巻き込まれたくなければ、早めの対策をとろう。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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