“勝手にふるえてろ” 綿矢りさの描くこじらせ女子に共鳴した松岡茉優の狂気

2019/05/18

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原作を読み直したのもあって、いまさらながら『勝手にふるえてろ』を観た。松岡茉優がとにかくすごかったのと、カメラワークの妙技について、思ったことを書き残しておく。


綿矢りさの描く女性像に素顔で応えた松岡茉優


いわゆる“非モテ”の“こじらせ女子”を妄想でくり抜かれた世界にはめ込み、現実世界との対比で描く激情。内向的なヨシカの日常は、常に現実と妄想にあふれていて愛おしい。松岡茉優は、15年前に『インストール』で上戸彩が演じきれなかった綿矢りさのこの世界観を、おなじ世界線で演じている。

綿矢りさの生活観は、一見幼そうだが現実的で、妄想ばかりに手が回るのかと思えば打算で動くときもある、現代日本の“非リア”と呼ばれる女性の妙味を巧みに捉えるのが特徴である。自尊心と自己肯定感が低くアンモラルだが、社会風刺的に現実を鋭利に見抜いている人物描写には好感が持てる。

何者でもない自分と社会の隔たりを上手に合わせることができないヨシカの様子は、即物的な感情と情緒的な衝動を併せ持つ、まさにネット時代の申し子のような現代人の複写である。しかし、ヨシカの趣向は総てが自己愛の範疇で、相手を受け入れる愛情まで達していない。


淫靡な妄想で構築した世界観


ヨシカは一見充実したリアリティラインを踏まえているように見える。カフェのウエイトレス、駅員、釣り人、バスで一緒になるひと、生活を取り巻くなんでもない人間たちに、簡単に話しかけては共感を得るのが得意である。しかし、それは総て妄想である。

ファーストカットで、ウエイトレスとヨシカが話す場面は、ヨシカの現実と理想の比べ描きである。ウエイトレスの存在は、髪を金色に染めて、華々と可愛いらしい存在であってみたかった自分そのものだ。どこか淫靡で、どこか現実離れをしている。それは、自分のあたまのなかで妄想として行われていることだからだろう。

作中で光を多用した妖美なシーンが多いのは、ヨシカの妄想がストーリーの基軸となっている証明である。会社での来留美との休憩の場面など、友人としての同性愛の要素をほのめかす寸前まで描いたのは、ヨシカのなかで来留美の存在がそれだけ大きかったということだろう。来留美が節介をやいて約束をやぶったことは、やはりそのぶん重たいし、ヨシカには許すことはできなかったのだろう。


ヨシカに背を向けたイチ


ヨシカは、自分にとっては逆効果であったニの手法をあの手この手で尽くして、イチとの接触の機会を得る。

上京組で開くことになった同窓会は、タワーマンションの高層階。集まっているのも、キャピキャピした明るい性格の男女である。ヨシカには手の届かない高嶺であることを、舞台設定から示唆している。

また、タワーマンションのエレベーター内のカメラワークで、ヨシカは隣のニに構わずイチを見つめているが、イチはヨシカに背を向けている画が撮られている。

エレベーターという場所は会話などの気遣いの機会として文芸作品でよく取り上げられる。ヨシカは、画面の前のほうで最も大きく写るイチを見ている。しかしイチはヨシカにまるで興味はなく、前しか見ていない。ヨシカの隣には本意か不本意かニが立っており、2人は画面後方でおなじ大きさで写っている。大きく写るイチは2人に背を向けている。

3人の関係が、ほかのだれもが関与できない密室のこの一枚の画に詰まっていた。

ヨシカの履いたヒールの靴はお洒落の象徴だろうが、同時にタワーマンションと同様に「地に足のつかない高さ」を表している。古代生物というイチとヨシカの共通項にも、内側では埋まらない差が設えられていたのだと思うと、鮮麗で瀟洒なタワーマンションの夜景が、それだけに切なく胸の奥をしめつける。


ヒールを履く必要のないニとの日常


その後のニとのデートは、タワーマンションとの対比構造になっている。日用のスニーカーに履き直したヨシカは、地に足をつけて緑の大地をしっかりと走るのだ。その関係は、イチとはまったく違う。現実に即した、背伸びしない、まるでヨシカが両親を見ているような違和感のない関係である。

もともとニは等身大の人間だった。奥多摩へ釣りに行ったというデートも、「魚が釣れるまで俺は待っている」というニの姿勢そのものを体現していたのではないだろうか。その結果、ヨシカの口から「好きとか嫌いとかよりも、違和感がないことの方が大切」という言葉を引き出したのだ。

ストーリーを追えばニの見事な粘り勝ちなのだが、ヨシカは、綿矢りさの描く女性は、こんな程度では終わらないのも事実である。


ヨシカの思う上位と下位の意識、そして勝手にふるえてろ


自ら突き放したニは、ヨシカと目があっても階段を上がっていってしまう。タワーマンションもそうだが、やはり、この映画は上下の移動に関して相当の意味を含んでいる。ヨシカのフロアから「上がる」ことで離れていくニは、ヨシカの劣等感を如実に表している。

さらに、大雨の玄関先でのラストシーンでは、ニはアパートの上がり框の部分に立っていて、ヨシカと向き合っている。たいしてヨシカは部屋に上がったとこに佇んでおり、このとき、対峙する2人の目線の高さは同格である。ニは、ヨシカと対等な立場で喧嘩をするのだ。

耐えたり、浮かれたり、片方だけの気持ちの昂りでは、ただの恋愛ごっこだろう。しかし、あの場面では、ヨシカとニは本当の意味でぶつかったのだ。そしてヨシカは「勝手にふるえてろ」とニにキスをするのだ。

イチや、ヨシカの同窓生のような明るくて人間関係の上部にいるような人間には必要のない、「心のぶつけあい」と「他者の理解」を、同時にやり遂げたラストシーンには拍手をおくりたい。


結び -松岡茉優の狂気について-


カメラワークが揺れることで、登場人物の心情を表現していたり、逆に定点カメラで撮ることで変化のない日常を表したり、カメラの使いかたも本当に上手だった。

「勝手にふるえてろ」

これは、盲目のまま手探りで生身の人間と向き合おうとするヨシカ自身が勇気を振り絞る際の武者震いに対しての言葉に聞こえてくる。

そして、少しずつ愛する男と愛される男の違いを見極めていくヨシカの成長の様子は、ヤンデル系の女子達が本当の幸せを掴むまでのアイオライトのように感じられ、痛々しくもしっかりと逞しい、希望の持てる現代の恋愛指南書でもあるように思えた。

現実に存在するニに、ヨシカはもう溶け込んでいたのだろう。ニからもらった赤い付箋が、少しずつ彼のシャツに沁みこんでいったように。

これまで、可憐で、綺麗な松岡茉優を切り取る映画監督はたくさんいたが、ここまで不細工でおもしろい松岡茉優を引き出したのは大九明子が初めてじゃないだろうか。

来留実 来留実 くるくる 来留実の
クルクルパー!!!
うっかりバラしちゃうほど クルクルパーなのか
なーにがニは初めての相手には丁度いいよーだよ
ドスケベが!ポン引きかよ!
私の事ずいぶん下にみてたんですかねぇ
守ってあげてるぐらいに思ってたんですかねぇ
すみませんねぇ
てことはニ...
赤い付箋の君を見つけた?
下の付箋は俺が取ってあげるよってか?
ファーーーーック!!!
処女を可愛いと思う男なんて大ッ嫌い!
だいたいあんたは私の人生に急に現れたポッと出のくせに
人の聖域にズカズカ土足で踏み込んで図々しいんだよ!
こちとら恋愛10年コースでやってんだよ!

初主演映画でこの台詞を等身大で言えてしまう松岡茉優のすごさよ。演技も入っているのだろうけど、松岡茉優自身のパーソナリティであることも透けて拝察される。嫌味を感じさせず、むしろ痛快である。

この狂気を取り入れた監督には大手を振って花束を。

この狂気を演じた役者にも大手を振って花束を。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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