“海の幽霊”で米津玄師がみつめる森厳のサウンドスケープの現在

2019/06/10

music

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先日、映画『海獣の子供』の主題歌である米津玄師の楽曲「海の幽霊」が配信リリースされた。ふざけろとでも言いたげに思うところがたくさんあった。米津が「Lemon」で勝ち得たJ-POPという天下で、いまなにをしようとしているのか、考えてみた。

1. “声”という魔法に、デジタルクワイアが作用する比喩としての“幽霊”


2017年のアルバム『BOOTLEG』以降、米津玄師の表現力は留まり知らずである。かつての、バンドアンサンブルのなかからボーカルが抜け出して訴えかけるロック然としたサウンドだった頃と比べると、適切な楽器を適切に配置することで、音の居所が整理されている。売れたからではない。声に比重を置くためにそう言ったサウンドを米津が求めたのか、あるいはバイオグラフィーの変化の過程で何年もかけて声が成熟したのか。いずれにせよ、ある程度のセールスを記録してなお、ここまでの引き出しが開けられることなく眠っていたことには驚くべきだろう。2018年の「Flamingo」では、生の声を意図的に操作するための歌唱法の見直しやサウンドの整頓が際立って行なわれた。

2002年にGLAYがリリースした「逢いたい気持ち」「またここであいましょう」の2曲において、ボーカルのTERUは「声を“声”として唄うことと、“楽器”として唄うこと」を、意識的に心がけてレコーディングに注力したというエピソードを残している。これに倣うなら、米津玄師の声は、間違いなく“楽器”としての機能性が高いだろう。

なぜこんなことを持ち出すのかというと、今作「海の幽霊」では、ボイスエフェクターによる大胆なボーカルの変調が多用されているからだ。いわゆるデジタルクワイア。ボン・イヴェール、フランシス・アンド・ザ・ライツ、日本(人)でもyahyelやillionなどのアーティストがアルバムに取り入れている多層的なエレクトロニック・ハーモニーである。ボコーダーやオートチューン、メロダインなどの技法を活用してきた米津玄師を知っていると、「海の幽霊」を聴いたときに彼の“声”について考えずにはいられない。このPrismizerを使ったデジタルクワイアを、米津はメインボーカルに使っているのだ。

もっとも、『BOOTLEG』に収録されている「灰色と青」や「fogbound」などでは、メインボーカルを支えるコーラスに変調を加えたり、オクターブ上下の変調されたコーラスを加味することで、特有の浮遊感や、浮世離れした情緒の血脈を築いている。しかし、これらはあくまでボーカルの下線部に乗るメロディや、ボーカルの合間になるスキャット的なアドリブ要素の強いパートに付与されたもので、肝心のメインボーカルそのものにはインプットされていなかった。

だからこそ、なのだ。

「海の幽霊」のメインボーカルにかけられたデジタルクワイアは、米津のディスコグラフィーにおいて重要なキーになる。エレクトロニック・サウンドにおいて、人間の声を機械的に薄情冷徹に仕上げることは容易である。しかし、多層的に声を重ねることで、それぞれの声に宿ったボーカリストの自我が、リスナーを心象を包むように作用するPrismizerのデジタルクワイアは、米津玄師の米津玄師ならざる自我とともに、聴いている我々を個々交々に包みこむ。その声のメタファーは、まさしく我々に「憑依した幽霊」としての米津玄師体験である。

もちろん、この歌のキモはそこだけではない。管楽器を取り入れることによりスケールを大きくすることはもちろん、サビの直前に入る弦楽器のグリッサンドや、そこに至るまでにたたみかける鋭利なクレッシェンドの応酬。なだらかなテンションを心に張っていき回収する諸行は見事としか言えない。デジタルクワイアに着地させた硬質なビートサウンドと、地続きでアレンジメントを構成するオーケストレーションが調和するから、ダイナミクスも豊かになり、音の粒立ちを際立たせ、奥行きが生まれている。

2. 米津玄師の系譜では語れない空想と生物への愛と畏怖


いまの米津玄師にはいきおいを感じる。しかしそれは、なにも音楽的な側面に限った話でもないだろう。

数々のファンタジーを取り扱ってきた米津玄師だが、シニカルに極めてシンプルに、歪な空想のなかでも徹底して人間の愛(うつく)しみに問いかけるぬくもりを唄ってきた。過去にはその感情をボーカロイドが唄うことで、楽曲にある底知れない恐怖の渦中が増幅されたり、人間的な切なさに訴える得体の知れない孤独が微細な輪郭を粒立たせることもあった。そして、2012年に『diorama』をリリースし、以降彼の空想世界や生物像を、自身の肉声で唄ってきた米津玄師。今回も、デジタルクワイアをメインボーカルにかけた新境地を見せながら、米津は空想と生物を唄う。

かつて米津玄師は「Black Sheep」や「ホラ吹き猫野郎」などで、異形の生物の愛らしさを表現する際に、不協和音や不規則なリズムパターン、スキャットにも似た意味のないカタカナの言葉(シャララ、スチャラカ、ラリパッパ等)をふんだんに使用した音を選んでいた。

一方で、「首なし閑古鳥」では、<なんとも歪な 形で生まれて/成す術なんてなかったけど/あなたによく似た 心があるのさ/それさえ確かであればいい>と、歪んだ空想生物に通う心を描いたし、「あたしはゆうれい」では想いを寄せる幽霊の清澄高潔の心情を迷いのない筆致で綴った。

すがたかたちこそ、彼らは異体変種の特殊な、米津の空想上の生物である。しかし、彼らを捉える詩のなかに友情や恋心を認めることもあれば、喜怒哀楽をもって、だれかの悲しみにともに涙したり、だれかの笑顔を喜んだりする映像も見られる。そこには、空想上の生物に対して米津が懇切に慈しむ姿勢がうかがえる。

そこまで丁寧に、稠密に唄ってきた米津玄師の「空想生物愛」とでも呼べる生命愛だが、「海の幽霊」は明らかに違う。この歌は、これまでの系譜やアティテュードで語るには、やや難しい。

もちろん、いままでと惑うことなき米津の空想と生物への敬意はしっかりと感じる。サビで処理されたデジタルクワイアや、豊かなレンジ、オーケストラによる演出に鯨の鳴き声などは、我々の身近に置いておくにはあまりに畏れ多い自然への畏怖と不気味さ、そして、それゆえの神秘性を表現しており、その完成度はもはや解らない。米津のなかで、どこまでの意図があって作品を突き詰めたかは、細かいディティールを挙げればきりがない。つまり、「完璧に表現している」とも断じ難いし、したがって米津は「まだ投げてない球種を隠している」とも捉えられる。米津玄師のポテンシャルの奥底は遠い。

しかし、そんなまだ計り知れないポテンシャルを秘めた米津玄師だからこそとも言えようか、この「海の幽霊」という歌は、読解味得の及ばないゆえの未完で不完全な美しさをもっている。そして、それでももちろん、米津玄師の手中ではこちらの思惑など手玉として見透かされているかのような畏怖に近い恐ろしさが、常に源流に流れている。

「海の幽霊」を聴いたときに感じるこの「畏怖に近い恐ろしさ」だが、おそらく我々が「幽霊」や「海の生物」に相対するときに抱く未視感とも呼べるそれとよく似ている。それはとても怖い。しかし、解らないから美しく、完全には理解できないから、そこに魅力を感じ、惹かれるのだ。本当に難しい数式や数学の問題というのは、見惚れてしまうほど端正である。「海の幽霊」も、それに近い感情を湧き立たせてくれるのではないだろうか。

ただただその場に立ち尽くすことしかできないような、この圧倒的に凄艶な澱みのない音楽に呑みこまれるとき、少しは、米津玄師の見ている心象風景の奥底を垣間見ることはできるだろうか。想像よりきっともっと暗い、米津玄師の深淵に臨む我々の精神性が、その奥深さの最深層に片手でもたどり着けたときは、どんなふうに震え、なに感じるだろうか。

3. 結び -これが米津玄師のサウンドスケープである-


インディーズでリリースした『diorama』のように、たったひとつを満たすのみの世界をつくりあげる一枚を、その後の『BOOTLEG』までの3枚までのアルバムを経て「海の幽霊」に辿り至った米津玄師がつくったら、それは一体…。

今作は、目を開けることすら恐怖を憶える歌。これが、現在の米津玄師である。彼がこの意欲を、このサウンドスケープを一枚の作品に描きだすとき、そのメッセージはどんなものになるだろう。想像がいまから、心が躍ってしまうんだ。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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