辻村深月『凍りのくじら』理帆子だった自分だからこそ、彼女の浴びた光がわかる気がした

2019/06/16

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藤子・F・不二雄を「先生」と呼び、その作品を愛する父が失踪して5年。高校生の理帆子は、夏の図書館で「写真を撮らせてほしい」と言う一人の青年に出会う。戸惑いつつも、余所とは違う内面を見せていく理帆子。そして同じ頃に始まった不思議な警告。みんなが愛する素敵な“道具”が私たちを照らすとき―。




オスカー・ワイルドの傑作『サロメ』は、聖書のたった一節から着想を膨らませて、人間の悲恋と背徳に陰る劇的な戯曲に仕上げられた。日常の生活に些細に鎮座するさりげない言葉やなにげない光景から、文筆家という人種は空前絶後の物語を創造する。今作『凍りのくじら』は辻村深月が、ファンを公言する『ドラえもん』の作中に出てくるおなじみの「ひみつ道具」から、様々な物語を編み紡いだものである。

少し、〇〇


少し、不在。

主人公・理帆子は自分のことを評して、こう表現している。「少し・〇〇」というのは、藤子・F・不二雄がみずからのSF作品への創作姿勢を「SF=少し・不思議な」と称したことへのまごうことなきオマージュである。少し、不在。だれとでも仲良くできて、相手が欲しい言葉をかけてあげることができる。自分の本心とは裏腹に、相手の本心にとっていちばん最適な解としての言葉を選べば、自分の本心がわからなくなる。

付き合い上手で、相手の本心にうまく合わせることができる理帆子は、それゆえ「自分の本心」を忘れていく。だれに聞いてもらえばいいのだろう? だれも理帆子の本心は必要としていないんじゃないか。そう思うから理帆子は、明白に駄目な若尾と曖昧な関係を続けたのだ。

ねぇ若尾お願い。私を好きだと言って。
もう一度やり直したい。
優先順位は、夢より私が上で、私を手放したくないと言って。
夢が叶わなくても、私がいるなら折り合いがつけられると、そう囁いて。
だってあんたの夢は、形骸化してもうボロボロだ。
言葉や思考で若尾をどれだけズタズタに貶しても、ここは変わらない。
思い知って、涙が出そうになる。私は見苦しい。
お願い、若尾。どうか、私を欲しいと言って。
そしたら絶対に助けてあげるから。

若尾は、「少し・腐敗」。若尾に限らず、母親にも友達にも、肩の上からなにかを知ったふうにレッテル貼りをする理帆子のこの癖は、正直、褒められたものではない。

しかし、理帆子にはわからないのだ。若尾の気持ちも、母親の考えてることも、友達の本心も。心の隅で感じてる「自分は必要とされてないのでは」という予感が、本当だったら自分が傷つくだけだ。理帆子の「少し・〇〇」というレッテルには、自衛本能のような気持ちが働いている。傷つきたくないという願望から来るせめての強がりにも見える。そういう意味では、理帆子だって向き合おうとせずに逃げているわけだ。

だから、若尾に必要とされたいのだ。理帆子は若尾に精一杯の居心地の良さを提供している。自分は裏切らないというサインを見せているから、あなたにも自分を必要としてほしい。決して素直な性格ではないが、そういう駄目な不器用さも、理帆子の可愛らしい魅力でもある。

自分が周囲を満たしているようで、周囲から気を遣われている理帆子の本質に、若尾と大きな違いはない。若尾がいれば理帆子は、自分が不在ではなくなるような気がしていた。「カワイソメダル」を若尾に提げさせていたのはほかならぬ理帆子である。

のちに悪質な行為に及んで行く若尾との「カワイソの舐め合い」に、理帆子が溺れなかった決定的な違いが、小学四年生である郁也の存在だった。

郁也にとっての光


郁也の存在が理帆子にとっての救いであったと同時に、理帆子もまた、郁也にとって必要な人間だった。

父が失踪してからの理帆子の生活を、金銭面で援助してくれたのが松永だった。郁也は松永の不倫相手との子どもである。

君はこれから先、何も望んではいけないし、期待してはいけない。
本当に君を必要とする人間が現れるまでの間、決して何も欲しがらず、苦しいことにも全部耐えなければならない。絶対だ。
そしてピアノを続けなければならない。
大丈夫、君の才能と僕とのこの約束があれば、それだけで君のお父さんは絶対に君のことを捨てない。
お父さんは君のことを必要とするようになる。

理帆子の父のこの言葉が、郁也の声を奪っていた。悲しみも喜びも言葉にしなかったのだ。若尾が郁也を誘拐し、理帆子が郁也を見つけるまで。

理帆子という、自分を必要とする人間が現れるまで。


テキオー灯



『テキオー灯』
二十二世紀でも、まだ最新の発明なんだ。
海底でも、宇宙でも、どんな場所であっても、この光を浴びたら、そこで生きていける。息苦しさを感じることなく、そこを自分の場所として捉え、呼吸ができるよ。
氷の下でも、生きていける。
君はもう、少し・不在なんかじゃなくなる。
道具の名前を忘れるなんて理帆らしくなかったね。『のび太の海底鬼岩城』。理帆が大好きだった映画だ。有効期限があるから、注意して。この光の効力が続くうちに、自分の力でどうにかするんだ。大丈夫、君なら必ずそれができる。
いつも君を思ってる。
僕も汐子も、君のことが大好きだ。
世界中の誰が駄目だと言っても、僕らは言い続けるよ。
理帆子は、誰よりもいい子だ。
藤子先生みたいになれなくて、ごめんね。

 凍りのくじら。

芦沢光が撮った流氷の写真。氷の下に閉じ込められた鯨の親子のニュース。

学校から帰ってきて、急いでテレビをつけた。
そうしたらもう、顔を出すのは二匹だけで、一匹がもう息継ぎをしなかった。そのすぐ後に、後を追うようにもう一匹。
最後の一匹は、仲間が沈んだ海で孤独に耐えた。息が出来ないのに。

芦沢光は、鯨のもとへと駆けつけた。最後の一匹をどうしたかったのかは不明瞭だ。助けたかった? 見届けたかった? なにをしたかった? 最後の鯨が孤独に耐えなくて済むように、呼吸ができるように、氷の下でも、生きていけるように。

最後になるであろう母の外出が駄目になって、理帆子の悔しさや悲しみは如何程だったろう。そばにいる友人に、相談できなかったことが、どれほど歯がゆかったろう。好きという気持ちを、感謝を、愛を、伝えられなかった理帆子の苦しみは、簡単には想像できない。

それでも。

テキオー灯を浴びた理帆子は、しっかりと呼吸をして、振り絞って言葉にする。

私、郁也と一緒にいてもいい…?

芦沢光の思い、理帆子の思い、 美也と加世の願い、母の気持ち。いくつもの物語が重なり、行き交い、ときにすれ違うことで、多層的な露光を描写している。海の底までその光が届くとき、とても力強く、美しい。

結び -ドラえもんがいたこと-


少々個人的な話をすると、僕は思春期の頃にアイデンティティの危機に瀕したことがある。

「少し・不機嫌」な父とは、何度となく衝突した。「少し・浮遊」な母は、僕らの仲介に入りながらも積極的な解決への姿勢はなく、夫と息子の「少し・不仲」な関係を見守ることが多かった。僕らは「少し・フェイク」な家族だった。

切っても切れない肉親との些細な不仲でさえ、子どもというのは存在について考える。それらを一律に言語化して一般名詞を付与するのは難しい。しかし、「なぜ自分はこの関係のなかに生まれてきたのだろうか」という問いは、無意識下で確実に存在するはずだ。

僕は「少し・不健全」だと思う。だからこそなのか、若尾大紀に少し感情が入る。理帆子に藤子・F・不二雄がいたように、若尾にも「ドラえもん」がいてくれたらよかったのに、と。

ドリームポップとも言える空想に逃げ込めた僕は幸せだった。もし自分に「ドラえもん」がいなかったらと思うと、背筋が凍る思いだ。

そして、憧れるのは美也のような存在である。

先日、高校以来10年の付き合いがある友人の結婚式に出席した。何事にもまっすぐで、仲間の喜びを共に笑い、なにか立ち止まることがあれば一緒に悔やみ、悲しいことに涙を共有できる自慢の新郎である。元野球部で185cmの体躯を持つ彼は、言うなれば「きれいなジャイアン」だ。

彼とは距離が近かったゆえか、喧嘩もした。学校生活ではしばらく口をきかないこともあった。卒業後、数年に一度あるかないかの同窓会で、僕が酔いに任せて「おまえは友達が多くていいな」と言ったことがある。交友関係の広い彼へ皮肉っぽく口にした僕に、彼は「なに言ってんだ。おまえとお俺だって友達だろ」と平然と言った。

友達の定義について考え、「本当の友達は自分にはいない」と思っていた僕にとって、この一言は効いた。こういうひとには、やっぱりかなわない。その日、居酒屋に傘を忘れて小雨のなか歩いて帰ろうとした僕の横に、傘を手に持って歩く彼がいた。傘、ささないの?と訊くと、強風で曲がったと言う。濡れるよりマシだよと促すと、「おまえも濡れて帰るんだろ? いいじゃねぇか」と答えた。ジャイアンだった。

『凍りのくじら』は、父から娘へと「光」が受け継がれる物語でもあった。芦沢理帆子が浴びた光とおなじものを、僕もいつの間にかいろんな人間から照射され、ここに配剤されて生きている。少し、いや、「Sugoku・Friendly」な人間関係に恵まれたことに気づくとき、むかし感じた「なぜ自分はこの関係のなかに生まれてきたのだろうか」という問いに、答えを垣間見た気がした。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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