正義と『天気の子』と、須賀という男について

2019/08/28

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「もし物語のなかに拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」、ロシアの作家=アントン・チェーホフのこの言葉はあまりにも有名だ。後段の展開で機能しないものをストーリーに組み込んではいけないという、いまや伏線や導線の確保に用いられるもっともポピュラーな手法のひとつだ。今作にも、臆面なく銃が登場した。

物語は、街の電光掲示板で「18丁の銃が押収された」というニュースが流れるところからはじまる。歌舞伎町を歩いていた帆高は、黒服の店員から蹴られた拍子に、ゴミ箱に入っている一丁の銃を手にする。

“チェーホフの銃”に則れば、この銃は発射されなくてはいけない。冒頭が銃のニュースであることからも、この映画は「銃をめぐる物語」である。すなわち、「だれが」「いつ」「どこで」「なぜ」発砲するかが、とても重要なキーになる。


帆高による正義の誤発



帆高は歌舞伎町で、黒服と陽菜が話しているところを目撃する。入店させられそうになっている陽菜を助けようと帆高はとっさに黒服をはねのけるが、すぐに隘路で挟み撃ちに遭い、陽菜を逃すべく懐に忍ばせた銃を発射する。

これは、本来なら少女を救うヒーローの場面である。しかし、陽菜は生活費を稼ぐために自ら入店を希望していた。ビルに逃げ込んだ陽菜はあろうことか帆高を責める。帆高の早とちりが仇となったこの一発目は誤発である。

何者でもない少年が、力のある大人から、非力な少女を救い出す。この“正義の定石”あるいは“正統の正義”を、映画冒頭にして新海誠は捨てたわけだ。それはつまり、二発目に発射される状況こそ、監督が真に描写したかった正義だということだ。


立ちはだかる大人の正義



刑事である安井と高井は、国家を守るために帆高に銃を向ける。帆高は未成年だ。しかし、陽菜が天候を左右する人柱であることを考えると、帆高の行動は社会への反抗どころか“国家への反逆”である。これがラストシーンにもつながり、だから、鳥居のビルで相対したときに、たかがひとりの少年に向けて、安井と高井は銃を抜くのだ。

一方、亡くした妻とのあいだの子の親権を取らなければいけない須賀は、警察沙汰は避けなければいけないところだった。そのため、家出少年を誘拐したという疑いを払底すべく、住み込みで働いていた帆高を事務所から追い出した。

もちろん、これは妻の面影を残す愛娘を手放したくないがための行動である。ゆえにその感情は、いつしか帆高への同情にも変わる。帆高へは「事情を話せばわかる」と慰め、刑事には「まだ子どもなんですから」と宥める。須賀の大人としての正義は、常識や経験に裏付けされた非常に現実的なものだった。

帆高はそこで、しかしながら、発砲するのだ。大人たちの正義を撃ち抜くように。


二発目の正義



二度目の引き金は、力強く、そして意志に則って、ひかれている。

「再会」「再起」などもそうだが、物語において二度目というのは、ただの偶然が運命や宿命へと変わる瞬間の起点として描かれる。真実はそこにあり、メッセージの大事な言葉は、余すことなくそこに詰まっている。

帆高が行使した二度目の正義は、過ちでもなんでもなく、国家や大人といったものが持つ正義への主張である。「青空よりも陽菜がいい」、二度目の銃声のあとに我々が見届けた帆高の意志が、つまりは真理なのだ。

この物語は平和や調和を取り戻す話ではない。世界を任意に選ぶ話だ。刑事の持つ権力の世界や、須賀の持つ常識の世界は、帆高たちにはなにも与えてくれない。例えば、夏美は帆高や陽菜とおなじく、そんな大人の世界に居所がない若者の一人である。しかし、「運び屋」としての役割を担うことで、間接的とはいえ「自ら世界を選ぶ」行動を実行した。調和しないことが前提で、平和にならないことが約束されていても、「個々が拠り所にする場所」を、新海誠は光りとして捉えている。

「愛が世界救うだなんて僕は信じてないけどね」とうたったロックバンドがいたが、「愛は地球を救う」というコピーにたいし、「救われることが望めない地球で、愛がだれを救えるか」というメッセージが、どれだけ現実的で、希望を宿しているだろうか。RADWIMPSの語りかける主題歌も味わい深いものである。


音楽と映像の美しさ



アパートでの創作料理や、ホテルでのジャンクフードの爆買いなど、個人的には食事のシーンがとても美しかった。「神様、お願いです。これ以上僕たちになにも足さず、僕たちからなにも引かないでください」という帆高の台詞は、この映画のもっとも人間らしい側面を一言で表していて素晴らしい。

世界の修正力や劇的展開に頼らないで、あたりまえのように救いのない終わりかたをしている。いまの新海誠の立ち位置を踏まえたうえで、物事が都合よくいかない結末を貫いたのは嬉しかった。ファンタジーである以上、矛盾や奇跡はいくらでも存在しうる。そのなかで、「君か世界か」という命題には絶対的に二律背反にしたのは、監督としての英断であると思う。

花火やバイクのカーチェイスのシーンなどで、長尺のCG使用が多くあり、新海誠の映画にしては意外にも背景が背景としての役割を全うしていた。全体的に彩度を抑えることで晴れたときの鮮やかさがより強調されて観ていても心地良い。警察から逃げて鳥居を目指すといういちばん身体的にしんどいシーンで、世界がいちばん綺麗で晴れやかに描かれている一方で、最後の再会のシーンでは背景がどんよりとカタストロフィーを描いていて対照性も美しい。

エレクトロ系の挿入歌もあって現代風ななか、リバースピアノとグリッチ系ピアノの伴奏がいい意味でバグっぽくて、世界に歪みが起きている心象が丁寧に鞣されていた。銃声も大きすぎない、絶妙な印象づけをしている。また、水たまりで夏美のバイクが動かなくなるシーンで伴奏も同時にとまるのだが、その際に下手(左)側のギターだけがほかの音よりディレイドでグリスしながらフェードアウトしていて、エンジンの停止と伴奏の後退がシンクして表現されていた。劇中でほとんど雨のSEが入っていることも、流して見てしまいがちだが相当芸が細かい。

「この物語を、端的な一節で歌詞にしてください」という監督のオーダーと、それに百点満点で解答する野田洋次郎の才能は、相性がいいのだろう。二作品続けてRADWIMPSか、と不満な気持ちもあったが、劇盤を聴くと納得する自分もいる。


須賀について



ところで、須賀という男について強いて考えるとするなら、彼は過去に帆高と同じ境遇を経験している可能性がある。

須賀が左手につけている二つの指輪のうちひとつは、亡くなった須賀の奥さんの形見である。“事故で”亡くなったと須賀は話しているが、これはおそらく、須賀の奥さんもまた晴れ女だったと推察できる。陽菜とおなじように、晴れ女の力を使い尽くした結果、消えてしまったのだとしたら、陽菜が消えたときに空から落ちてきた指輪とも重なる。

須賀の娘は喘息もちで、雨の日に発作がひどくなりやすい。娘のために晴れ女の力を使う妻を、危険を感じながらも咎められなかった葛藤が須賀にかつてあったとしたら、指輪はもちろん、冷蔵庫のメモ書きといった妻の形見といまも暮らす須賀の未練や心残りも解る。仕事としてオカルトを扱っているのも、ほかならぬ須賀自身が、科学では解明されていない未知の力を信じていた証明ではないだろうか。

須賀に親権がなかった理由も、それなら解る。須賀の言うように「事故」や「事件」など、現実的な亡くなりかたをしていれば、順当に考えて親権は須賀にあるだろう。虐待やネグレクトがあったような描写もなく、子煩悩な須賀から親権を祖母に譲った話は筋道として複雑すぎて、物語に挟み込むには理由が乏しい。現に、納得できない須賀は親権争いを続けている。

妻が消えたなら、すべて繋がる。

冷蔵庫のメモに代表されるように、家のなかには睦まじい夫婦の姿が点在している。ただの失踪と考えるより、天に消えたとするほうが自然だろう。もちろんその現象に周囲の理解は得られない。なんらかの事件に巻き込まれたとするなら、当然須賀も疑われただろう。少なくとも、妻が突如消える原因が須賀にあると考えた周囲の人間は、疑いの余地のある須賀を子どもと引き離した。考えられなくはない話である。

妻が死んだあとに、晴れ女の陽菜が現れた。その少女の運命を須賀は知っていた。しかし、雨が続くことは娘の容体にも影響がある。あのときの須賀の無意識の涙は、過去の後悔や葛藤を繰り返す自分への無力感からくるものだったなら、筋が通る。

総ての顛末を知っていた須賀だからこそ、クライマックスで廃墟に居合わせることができたのだ。もちろん、刑事の手から帆高を助けたのも、自分の辿った人生を繰り返してほしくなかった気持ちがあったろう。

かつて須賀は自身を殺してさえ「大人になる」という選択をしたが、帆高は過ちを犯しながらも大切なひとを選ぶ覚悟をした。世界のかたちが変わったとしても、たとえ世界のすべてを仇にしても、生きていく覚悟を選んだ。かけがえのきかない唯一無二のひとを選ぶ帆高の感情には、反論の余地もなく理解ができる。だから我々は心を打たれるのだ。


結び -「天気の子」とは-



3年ものあいだ雨が降り続いた東京では、一部は水の下に沈んだにも関わらず、テレビでは「穏やかな気候が続き、桜も長く楽しめるでしょう」と予報がされている。道ゆく女性からは「あんたって本当にポジティブよね」「週末のお花見楽しみ!」という会話も聞こえてくる。

天候が狂っても、そのなかで人々は桜を見る楽しみを雨のなかにさえ忘れなかった。いや、天気との向き合いかたを変えたと言ったほうが的確か。いずれにせよ、ラストシーン、陽菜が祈っていたその場所でも桜が咲いていて、やってきた帆高を見つけた陽菜の眼前には桜の花びらが舞うのだ。

陽菜の晴れにする巫女の力は確かに人々を幸せにしていたが、たとえ雨が降り続いていたとしても、人々はたくましく生活を続けていた。もちろん天気によって困らされたり、塞いだ気持ちになってしまうことはあるけれど、どのように天気と向き合うかによって、変わってくることもあるのではないか、ポジティブに生きていくことはできるのではないか。そういったメッセージも隠れているように見えた。

天気はたんなる自然現象ではなく、思いや運命や世界そのものの象徴であり、だれもに身近な「天気」のように、みんなの物語だという意味がある。だからこそ、「天気の子ども」ではなく「天気の子」なのだ。

また、「あした天気になあれ」でも使うように天気には「晴天」という意味もある。帆高にとっての陽菜、陽菜にとっての帆高のように、狂った世界でも生きていくための支え、希望、太陽のような存在。あるいはだれかの世界の理解者、そばで「大丈夫」になりたいと思ってくれている人を、天気の子と呼ぶのではないだろうか。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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