今日ここに生き、生かされている、その事実をえぐりとった『千と千尋の神隠し』

2019/08/17

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ええい、まどろっこしい。

金曜ロードショーで17年越しに『千と千尋の神隠し』を観たんだが、もちろん17年前に一介の小学生だった自分には読み解けなかった様々な解釈がとれておもしろかった。しかし、同時に「宮崎駿、伝えたいことをまっすぐに伝えられてねえ」という感想を持った。今日はその話である。


そもそも、映画の主題とは?


あくまで主観によるものだが、この映画は「依怙と偏執による“ものの見方”の再定義」と「資本主義社会への風刺」のふたつがキーとなっている。

そんな大仰な、と思うかもしれない。しかし、物語をよく思い出してほしい。この映画は、偏った情報を疑うことなく信じる千尋の両親のシーンから始まったといっても過言ではない。

摩訶不思議な街に迷い込んだ千尋とその家族は、屋台の店に並ぶ料理の数々を見る。両親は「お、うまそうだな」と躊躇なく食べ始めるのにたいし、千尋は「やめようよ」と両親を諫める。しかし止まらない両親を見かねて散策に出た千尋は少年・ハクと出会う。「ここにいてはいけない!」と忠告するハクに、千尋は慌てて両親のもとへ戻るが、すでに二人は豚になっていた。

子どもが見るには惨すぎるシーンである。そして、「不思議な世界は、とても怖い世界だった」と安易に片付けることさえできない、衝撃的な幕開けだ。

子どもと違って、経験をこなしてきた大人は物事への取り組みかたを、要領を知っている。しかしそれはいつからか、常識とされてきたことを憶え、固定観念に歩み寄っていることを意味している。純朴無垢な子どもである千尋は、だから事のおかしさに気づいており、「やめようよ」と言ったのだ。

思い込みやバイアスといった偏った考えは、ときに人間の思考を支配する。新聞、雑誌、マスメディア、どれもおなじである。子どもには疑問に思うことでも、大人は「そういうものだ」で済ませ、納得してしまう。

厳しい表現になってしまうが、「豚」というのは代表的な家畜の一種である。人間に飼い慣らされ、人間のために生きている。次から次へと料理を口にする両親は、社会に支配され情報を鵜呑みにする人間に喩えることができる。映画の冒頭部にしてすでに、強烈なメッセージを放っている。


油屋は、温泉宿という名の風俗店


千尋の働く、湯婆婆の「油屋」は、表向き八百万の神が疲れを癒す温泉宿という体制をとっているが、事実上の風俗店であることはお気づきだろう。というのも、資本主義社会は、しばしば風俗産業と同列に論説されることが多いからだ。

神様のような偉いお方をまえに、身を粉にして働き、上の満足を得る仕事。そうしなければ生きていけない多くの者がそこで働き、ときとしてシステムは疑問も持たせずに働かせることさえある。

契約書だよ。そこに名前を書きな。働かせてやる。その代わり嫌だとか、帰りたいとか言ったらすぐ子豚にしてやるからね。(湯婆婆)

 支配者の快適な生活を得るために、身を削って働くという構図、実直に「搾取」である。湯婆婆のこの台詞が、端的に表しているといっていいだろう。

あれは日本そのものです。みんな千尋が暮らす湯屋の従業員部屋のような、ああいうものだったんですよ。日本は少し前までああいう感じだったんです。(宮崎駿)

監督自身が雑誌のインタビューで認めるとおり、日本の経済基盤を支える社会環境を、油屋として 描いたということなのだ。「内向的な女の子がキャバクラで働くうちに快活さを取り戻していく」ことは、フィクションでもよく取り上げられる現実のストーリーである。湯婆婆のもとで働くことで、臆病者の千尋は表情を得ていき、それは行動にもつながっていくのだ。


名を取られる、ということ


湯婆婆に名前を奪われて「千」となった千尋だが、これは風俗業界でいうところの源氏名である。雇用契約を結ぶ象徴であるとともに、大人の世界で働くということでもある。

名前を奪われる際、千尋は自分の名前を書き間違えたが、これは自分の名前を忘れ始めているからだと推察できる。湯婆婆は相手の名前を奪うことで支配する。よって、名前を忘れてしまうことは、自分が何者なのか、なんのために生きているのかもわからなくなるということだ。

しかし、名前を書き間違えたからこそ、千尋は異界から元の世界に帰ってくることができたという解釈もできる。「湯婆婆との契約は正式には成立していなかった」という考えである。

社会には、このコミュニティに適合するよう必死に生きるうちに、「自分の生まれた意味」を忘れさせる仕掛けがある。お金のために、生きるために、家族を守るために、常識から外れないようにするために、と足掻き藻掻きしているうちに、「自分は何者で、なにをしたいのか」つまり「自分の生まれた意味」という、大事なことを忘れさせられる。

千尋はしかし、働くことに一所懸命だったが、家族のため、ハクのためと、命題を忘れることはなかった。それはひとえに千尋が子どもであるゆえのことであり、同時に、ただそれだけに過ぎないということでもある。


カオナシの正体とは


自分の言葉で話すことができず、他人の「言葉」でしかしゃべることが出来ないカオナシ。ただひたすらに、欲しい、欲しいと際限なく求めるそれは、湯婆婆いわく神様ではないという。ならばその正体とはなんなのか。

恐らく、カオナシは「居所のない欲望」そのものだと思われる。

千尋から住んでるところや両親の話をされたときに答えなかったのは、カオナシは欲から生まれた存在であるためにある。「さみしーさみしー」と連呼していたカオナシもまた、帰る場所も、居場所も、現実世界にも神様の世界にもないのだろう。

あの人は油屋にいるからいけないの。あそこを出た方がいいんだよ。(千尋)

結局は銭婆と共に暮らすことになるが、それはカオナシが油屋のような金儲けをする場所、欲が溢れている場所では周囲の影響を受けて危険な存在となるため、欲のない場所にいたほうが無害な存在で居られるということなのかもしれない。

カオナシは金品で他者の気を引こうとするが、無欲な千尋には通用しなかった。千尋から優しさの施しを受け、銭婆のもとへ居場所を見つけたカオナシは心なしか安堵していたように思う。

金品よりも大事なもの、それは釜爺がいうところの「愛」である。それを示し、最終的に愛に帰属することとなったカオナシは、この映画を愛の物語であると決定づけた存在である。

電車のシーンが表すもの


そもそも、なぜ電車で移動するのか。『千と千尋の神隠し』は神様や魔法が存在する異界の世界である。以前のジブリ作品では『となりのトトロ』に登場するネコバスや、『風の谷のナウシカ』に登場するメーヴェなど独創的な乗りものが描かれてきた。『千と千尋の神隠し』にそういった乗りものが登場してもおかしくはない。しかし、実際は我々も馴染み深い「電車」が登場した。

そこには単なる移動手段以上の意味が表現されている。架線を使わず、乗客の多くは中年以上の男性のシルエット姿。猫背で、くたびれた彼らは、みな一人で乗車している。

乗客を乗せた電車は、レールの上を逆行することなく走っている。それは現代社会の枠組みそのもののようである。人々が自分が何者かを忘れかけていて、生きる活力を萎ませているとしたら、自ら社会の枠組みであるこの電車から降りなければ、行く先は死の世界に繋がっているとも考えられる。

というのも、物語で、電車は一方通行であることが明示されている。帰る手段がないことから「死の世界」へ向かって走っているのだとしたら…。そしてくたびれた乗客たちは、人生を終えた「死者」であり、その姿は、敷かれたレールを逸れることなく進んでいく現代人のメタファーであるとは考えすぎだろうか。いずれにせよ、そう考えれば電車という乗りものが登場する必然性があったと考えられる。


銭婆、彼女は何者だったのか


湯婆婆の双子の姉、銭婆。

釜爺からは「怖い魔女」と呼ばれ、その言葉通りに「契約印」を盗んだものには死のまじないをかけている。が、実際の彼女は非常に優しい魔女でもある。

しかし、作中では銭婆についての情報はあまりない。「(湯婆婆と)2人あわせて一人前の魔女」「昔から(湯婆婆とは)あわない」等の本人の発言もあるが、多くはこの二つに終始する。湯婆婆が経営者として働き、野心的で金にがめついなど世俗的であるなら、彼女は魔法の力をあまり使わず、辺鄙な場所で自給自足の質素な生活を送っている、対極的な姉妹であることは解る。

しかし疑問もある。

性格や思考が正反対で、対極的なはずの銭婆は、なぜ服装まで妹と一緒なのだろうか。特に、質素な生活で贅沢を好まないはずの銭婆が、湯婆婆と同様に指輪を沢山つけているのもひっかかる。身につけるアクセサリーまで一緒なのはなぜだ。かつては銭婆も、湯婆婆のようなスタイルだったのかとも考えられなくはないが、湯婆婆のことを「ハイカラじゃない」と称したことから、それはないように思える。

まるで映し鏡のように、外見はそっくりな姉妹。

もしかして、「2人あわせて一人前」という言葉どおり、彼女たちは元々は本当にひとつの分けられない個人だったんじゃないだろうか。なんらかの原因で分離したとき、世俗的な部分や欲が妹に残り、姉にはそういった部分がなくなった。妹が一方的に姉に対抗心を燃やしているのはそのためなんじゃないだろうか。

もちろん、根拠のない空論であるのだが。


千尋にもどった千


奇怪な世界で様々な挑戦と経験で愛を知り、大きく成長した千尋。挨拶や礼もろくすっぽ言えなかった千尋は最後に湯婆婆にきちんと謝意と別れを告げたが、ラストシーンでトンネルをくぐる描写にはどこか臆病者の当初の千尋がうかがえる。総て、記憶からは消えてしまったのだ。ハクも、油屋も、みんな。

しかし、銭婆にもらった髪留めは、たくましく千尋のあたまに光る。油屋は、資本主義社会を写した建物だったが、そこを取り巻く一連の物語を経て、銭婆に良心からプレゼントされた髪留めは、残り続けるのだ。これは、どんな縦社会でも、心遣いからくるものは、簡単には忘れないのだという宮崎駿のメッセージとも読み取れる。

普通の女の子にもどった千に光る髪留めのなかに、油屋はきっと生きている。


結び -それでも資本主義に生きている-


悲しいことに、スタジオジブリですら、資本主義社会の一角である。宮崎駿は、このメッセージも忘れずに伝えたかったのだろう。

ひとの役にたつ素晴らしいメッセージを映画として作り上げるためには、お金が必要であり、スポンサーも不可欠である。スポンサーとなる企業や人間に、資本主義社会の警鐘をストレートに表現したところで、相手にされないだろう。お金を出してくれるところの殆どは、いまの社会の仕組みのなかでお金を儲けているのだから。

だからこそ、このようなまどろっこしい婉曲表現にしたのだろう。もしくは、そこまで考えずとも、「メッセージや主題があからさまに見えては、おもしろくない」ということなのかもしれない。

エンタテインメントに特化しながら、価値のあるメッセージを投げかけることは難しい。「メッセージ性を選ぶか、大衆性を取るか」、これはクリエイターの永遠のテーマでもある。

そしてそれを背反せず並存両立できるのが、宮崎駿の作品の懐の深さでもあると、僕は信じている。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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