自分のすべてをマモルにそそいで尽くそうとするテルコを、どうしようもないほどに都合よく扱うマモル。最低の所行の数々にほとほと呆れるが、エンドロールを迎えるときには、その総てが愛おしく、そしてあたたかかった。
『愛がなんだ』、GWに間に合わなかった僕にとって、アンコール上映はとてもありがたい。今日はその話だ。
まっすぐなテルコの、愛するまぶしさ
どんなに勝手な扱いを受けても、ひたすらマモルだけを追いかける岸井ゆきの演じるテルコの姿は切なく、痛々しい。帰宅してても「いまから会社出るから」と言えたり、入浴を切り上げて会いに行けたり、スマホ中毒者さながらにマモルからの着信を気にしたり、あげくマモルが原因で会社を辞めるに至る。孤食が常で、浮かれて二人用の土鍋を買う。そしてなにより、酒を飲んでる時間が長い。それをやっちゃあ駄目だろうと、鑑賞者である我々は指摘したくなる。しかし、一度走り出したテルコはとまらない。滑稽だが、しかしとてもエネルギッシュで、そのポジティブな図太さは次第に愛らしさを帯びた魅力となっていく。
追いケチャップ(つまみ食いしたテルコの口にマモルがケチャップをつけた指を入れる)をしても、朝まで飲んで家まで来ても、テルコはマモルの恋人ではない。「20代後半の恋愛は、こうやってなんとなく始まるものではないか」とテルコは評する。恋人とは、愛とはなんだろう。だれかを好きになるという感情はいまもって不明瞭だし、愛だの恋だのが気だるく感じたころもあった。
テルコはずっともがいている。馬鹿みたいにまっすぐ、かっこ悪いほど一途に。マモルになりたい、その一心で。
マモルに突き放され、どん底のテルコをヨウコが訪ねるシーンがある。差し入れをモリモリ食べるテルコを見て、ヨウコは「あんたのいいところは、どんなにつらくてもちゃんとごはんを食べて、冗談でも『死にたい』とか言わないところだよね」と言う。
その言葉に、テルコは平然と言い放つ。「だって、死んだらマモちゃんに会えないもん」
まぶしいと思った。とても強い気持ちで、こんなにもだれかを愛することができるものだろうか。まぶしくて、イタくて、とても愛おしい。
憎めないテルコになぜか共鳴する感情
途中から、僕はテルコになっていた。
ヤバい観客だとは我ながら思う。しかし、あのときの自分の感情を、短い言葉で的確に表す気の利いた一言がもしあるとするなら、間違いなくそうだった。
感情移入とか、自己投影とかではもはやない。僕はテルコとして、マモルの一挙手一投足に気持ちを高鳴らせ、ひりついた怒りをヨウコにぶつけ、ナカハラくんの発言に苛立ち、すみれのことを嫌いになれずにいた。
突然自宅を訪ねてきて台所に立つマモルを盗み見る気持ちや、おさえきれず溢れる笑みが、切なくてたまらなかった。散々突き放されて、すみれにたいする感情を断言され、それでも、いま現実としてマモルは自分のためにいまここにいる。もしかしたら…、でも、そんなはずはない。ひとときに飲み込んでしまえる束の間の幸せなのは解っていて、だからこそ苦しかった。映画で異性の感情にここまで心をしめつけられたのは初めてだった。
しかし、そのシーンで、テルコが麦茶を取りにいったことに気づいてしまった。
原則的にといっていいほど、テルコはビールを飲んでいた。この映画には本当によくビール缶が登場した。しかし、風邪をひいてるという事情もあるとはいえ、いま、テルコはマモルと麦茶を飲んでいるのだ。
そうか、テルコ。もう決めたんだ。
アルコールというのは依存や中毒の象徴として文芸で扱われる。テルコは、マモルへの依存をやめたのだ。ナカハラくんがヨウコに出した答えとは違う、テルコなりの、マモルへの解答である。
飼育員・テルコについて
ラストシーンは、テルコが象の飼育係を務めている場面である。象に餌をやるテルコ、シュールだが、この演出は考えさせるものがある。
マモルは33歳になったらプロ野球選手になると言い、その後は象の飼育員になると言う。過去には宮大工ともいっていたという描写がある。マモルは、きっと象の飼育員とは縁遠い人生を送っている。テルコが飼育員になったところで、同僚にマモルがいるという想像はあまりに不稽で、現実的ではないだろう。
だとすれば、マモルの未来にテルコはいない。テルコの「どうしてだろう、私はいまだに田中守ではない」という台詞は意味深長に核心をついている。テルコはマモル依存から脱却したのだ。
しかし、同時にマモルへの気持ちから振り切れていないテルコの生きざまも描いている。結局テルコは、マモルの象徴であった象の飼育をしているのだから。他者の世話がなければ生きられない動物園の象は、「世話をすることに依存した自分から自立できていないテルコ」の対象物である。一見、矛盾している。それでも、的を射ている。人間とは、そういう生きものだとも思う。
観てほしい、恋愛に冷めたひとにこそ
幸せになりたいッスねえ。
ナカハラくんはテルコにそう言った。願望、回答、同調、そのどれもを求めない息遣いの宿った若葉竜也の言葉だった。写真展をひらいたナカハラくんの表情は、そのときがいちばんすっきりしていて、かっこよかった。ヨウコがふりむいて微笑んだのもよかった。ナカハラくんには、どうか幸せになってほしい。心からそう願う。
この映画は、登場人物のだれにも共感できなかったとしても、だれとも似ていなかったとしても、いや、そういうひとにこそ、観てほしい映画だなと思った。個人的にこういう恋愛しかしてこなかった自分には、心の奥にひっそりと守られている小さな柔らかい部分に痛いほど染み入るなにかがあった。涙かもしれない、恋かもしれない、どこかに後ろめたさを感じつつも、肯定することに一生懸命だった時分の、精いっぱいの強がりかもしれない。
マモルは劇中で「世界をかっこいい人間とかっこ悪い人間にざっくり分けたとすれば、俺はかっこ悪い側の人間だと思う」と言っている。マモルは自称他称ともにかっこ悪い駄目人間ではあるけれど、この映画は、もとより駄目な人間の、かっこ悪い側の人間たちの物語であった。登場人物のだれもが、幸せな恋愛をしていない。
みんなだ。テルコも、マモルも、ヨウコもナカハラくんも。みんな駄目々々だ。だから愛しく、だから逞しいんだ。
「好きなひとに好かれたい」。個人差はあれど、恋愛をするにあたって多かれ少なかれその思いは根底に流れているのではないか。言葉にすればシンプルだが、たったそれだけの願いごとを完成させるのが、実はこんなにも難しい。その難しさが、恋愛の奥ゆかしさなのだろう。
人生の軸に恋愛を据えて、なにが悪い
すみずみまで自分とおなじ恋愛観を持った人間など、この世には存在しない。その異なる恋愛観の差異や乖離の部分に芽生える感情や生まれるドラマがあり、だからこんなにも難しく、やっかいで、どうしようもなく愛おしい。時代を問わず多くのひとがあたまを悩ませる不変の営みというのは、挙げてみると存外少ないものである。
「恋してないと、おまえは駄目だね」
むかし失恋したときに友人に言われたひとことである。
仕事が、家族が、趣味が生きがいです。そう言われれば、誰しもなんの違和感も抱かないだろう。しかし、そこに恋愛を挙げようものなら、途端に寒々しい視線を浴びてきた。
それが正しいか正しくないか、真っ当か真っ当でないか、常識か非常識か、普通か普通じゃないか。あー、全部どうでもいい。自分の選択が導いた結果を、きちんと受けとめる覚悟すらできているのなら、なにをしたところで自分の人生である。
自分の生きる意味を他者に委ね、求めるのはそりゃあ怖い。人間は結局自分がかわいい。自分の人生になんの責任も持たない他者を拠所にしてしまうなんて、どうかしていると思う。しかし、それでなきゃ生きられないことも、その怖さも葛藤も引き受ける覚悟も、当人である僕がとっくに自覚している。
自分の生きる意味を、自分の仕事や趣味、あるいは数少ない実力や才能のなかに見出せたらどんなに素晴らしいだろう。でも、どうしたってそれができない。そして、どうやらこれが自分なのだと、開き直ったように諦めがつく。
この結論は、山田テルコの存在なくしては語れない。
差し当たっては、自分の信じるほうへと愛情の矛先を向け、そこへ向かって全力で進みつづけるのみである。
愛がなんだと吐き捨てる日が、いつか僕にも来るのかもしれない。そうだとしても、自分の下した決断を後悔しない自信が、いまの僕にはある。
愛がなんだと吐き捨てる日が、いつか僕にも来るのかもしれない。そうだとしても、自分の下した決断を後悔しない自信が、いまの僕にはある。
*
性別も性格も違う「テルコ」という女性。
映画のなかを生きる彼女と、ノンフィクションの世界を突き進む僕は、戦友である。
たくましく生きよう、おたがいに。