『耳をすませば』が照らした寸分違わぬ青春の心象と土着しないファンタジア

2019/08/27

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古美術品店や神社でのエピソード、そこから様々に沸き立つ恋愛観、また、中学生が悩んだり謳歌できる特有の情緒を巧く紐解く“衝撃的なバラード”…、めくるめく奏でられる『耳をすませば』の一連のストーリーは、ジブリ一年生の僕が今日まで観たジブリ映画のなかで群を抜いてよかった。この感傷は書き留めておきたいので、例に漏れず残しておく。


「姿は見えないけど、気になる」が持つ演出効果



『耳をすませば』の冒頭から登場する「姿は見えないけど、気になるひと」である天沢聖司の存在は大きい。姿が見えないからこそ、雫も我々も天沢聖司について色々想像を馳せ、また自分にとって魅力的な人物としてつくりあげてしまう。

これは、恋愛においては特に顕著な常套の素描である。中学生にとっては、もっとも効果的な技法だといっても過言ではあるまい。

この汎用性の高い冒頭により、観客である我々は様々な脚色が可能になる。「自分もこういう経験してたなあ」という記憶の共鳴を招く演出効果によって、雫とおなじ気持ちでこちらの胸も高鳴るのだ。

また、ジブリ映画にしては物語に終始「特殊な人格」や「特別な容姿」を持つ登場人物が出てこないのも特徴だろう。どのキャラクターも普通の生活を営む人物として描かれている。この「普遍性」が息づくから、物語のファンタジアと対照性が生じ、魅力をさらに彩る仕掛けとなっている。


受験生ならではのメルヘン


中学三年、この設定はとてもいいと思った。人生の転換期を迎える局面で、だからこそ雫と聖司のこれから築こうとしている「未来予想図」はとても煌びやかなものになる。

物語の進行ももちろんだが、本作に散りばめられた、現実の世界に浸透していく「ノスタルジア」は、登場人物の背景にあるストーリーを巧みに進めているように思う。

聖司は「一人前のヴァイオリン職人」になるため、卒業を待たずにイタリアでの修行を決意する。雫は雫で、「物語を書く」という夢を叶えるべく、両親や家族の反対や説得を経て、自分の道を選ぶ。

「書きたいだけでは駄目だ」という雫の無力感は、痛いほどわかる。体系化されたセオリーやロジックは、必ず存在する。ものづくりの視点に立っている人間なら、聖司にたいする雫の嫉妬も、葛藤も劣等感も、総てわかるのではないだろうか。

望洋とした人生の荒波に単身で浮き立つというのは、そのスタートラインに立ったときに想像できるもの以上に大変なことだ。『耳をすませば』には、こうした「人生の岐路を自分で歩いて決める」ということへの独自とした価値観があり、聖司に関しては「日本にとどまらない豊かな人生設計」を思わせる姿勢を浮き彫りにした。

そして、「試しとやらが終わったのね?」と問う母親に「とりあえずね」と返事をした雫の清々しい表情には、もう焦燥も逡巡もない。

「広い舞台」にこだわらず、「人生にたいする見識と挑戦」がうかがわれることで、スクリーンでは描かれなかった「人間の成長」という長い長い時間軸への許容を芽生えさす。たとえばラストシーンで、吐く息の白い冬に薄着で朝日を待つ二人の若者は、無謀の象徴であり、まだなにも持っていないスタートラインに立っている。要領や分別をこれから身に着ける二人を祝福する朝日は、街を包み込むとても柔らかいものであった。観る我々もそれくらいの柔軟性を持つべきである。

ヴァイオリンの魅力


ヴァイオリンに限った話でもないが、人間は音楽にたいしてある種の陶酔感を持って接している。

『地球屋』は主に楽器のなかでもヴァイオリンを製造する小さな工房だが、その工房でヴァイオリンの音色が鳴り響く、とてもクラシカルな魅力を漂わせている。並ぶ雑貨もアンティークなものやレトロなものまであり、その魅力をイメージの側から助けてくれる。「これから不思議な世界へ行くのだ」という気概を思わす覚悟を持った景観である。

ここでヴァイオリンが持つ「クラシカルな魅力」というのも、「音」を聴かせてそれなりの空間に酔わせる大事な要素となるものだが、そうした“クラシカルな楽器”を“中学生が弾いている”という、なんとも稀な光景も興味深い。

『地球屋』で西老人をはじめ彼の友人、また天沢聖司と雫たちは音楽会を始め、そこでまた小さなサークルを作って楽しむが、このサークルにできたあたたかなムードは、おそらく本作に見られる「人の絆をさらに深めていくまで」の最良の表現として映っている。

雫はこの『地球屋』で初めて天沢聖司の存在を知った。そこに聖司の周りの人間模様が加味されることで、聖司と雫の関係がますます強固なものに変わっていく。その過程が、短くも稠密に描かれている。

聖司が夢に描いていた「ヴァイオリン職人になる」という将来像も照り映えてきて、まるで雫と聖司の未来の生活模様さえ、その場面に引き出されるような錯覚さえ覚える名シーンである。

ジブリ映画では頻繁に見られる「人の輪の基調を描いたシーンと経過」だが、ここでもストーリー前後の「人間模様のあらまし」を隈なく集約したような、非常に密な感動が冴えてくる。

主題となるカントリーロードの機能性、そして故郷について


オリビア・ニュートン=ジョンで知られる「カントリーロード」の原曲はもちろんジョン・デンヴァーだが、これは典型的なカントリーとはやや異なる。ジョンのデビューは1969年、ロックがもっとも熱かった時代であり、当時カントリー音楽は反動的なものだった。ジョンの音楽性も、カントリースタイルというよりも、シンガーソングライターのそれに近い。

つまりカントリーロードという曲は、「あえて」反動的に、カントリーを装って、郷愁を誘うものとしてつくられている。もちろんザ・バンドやイーグルスのような、ルーツに根差したロックを奏でるバンドも前後して出てくるが、彼らはもっと巧妙な計算のもとに過去の音楽を取り入れている。70年代に入って、革命の幻想が潰えたあと、ジョン・デンヴァーのノスタルジックな歌にうっかり癒された、みたいなひとも多かったんだろう。問題はそのあとにあり、ジョン・デンヴァーは環境保護や政治運動に走り、ニューエイジにハマり、カルト集団を形成していくような、少々ヤバい人間になっていく。

ジョン・デンヴァーは音楽家としてピークが過ぎたあと、スピリチュアル全開な活動家に変身し、妻にDVを働き、飛行機事故でバラバラになって死ぬ。これが、カントリーロードの作者の最期だ。ちなみにジョン・デンヴァーの出生地は、UFO墜落事件で有名なロズウェルだ。ロズウェルに生まれ、歌手として大成し、カルト化し、事故で不遇の死を遂げる。まるでポストモダン小説みたいな一生を送った人物ではないか。

ロズウェル出身といっても、ジョン・デンヴァーはアメリカ中を転々とする少年時代を送っている。つまり彼には帰るべき故郷はなかったのだ。カントリーロードという歌は、彼にとってフィクションだ。図式的に言えば、故郷がなかったからこそ、宇宙と一体化云々というひとになってしまったのかもしれないが…。

だが、だからこそ、聖蹟桜ヶ丘の郊外を舞台にした『耳をすませば』というアニメに、カントリーロードという曲はフィットしたのだろう、とも言える。この作品には、どうにも根源のなさ、不確かさという雰囲気が漂っているように感じる。

少々調べたんだが、宮崎駿と高畑勲は、90年代という時代、郊外に生きる子供たちの映画をつくろうという意図のもと、近藤喜文に『耳をすませば』を任せた。近藤はその企画意図にのめり込み、宮崎とケンカしてまで本作を完成させたが、彼の死のあと、同様のコンセプトでジブリが作品を作ることはなくなった。

『耳をすませば』には郊外のそばにある空想の世界を描くが、それはどれも欧州由来のもので、日本古来の土着性や、土地に根ざした文化は見られない。誠司の志す場所にある楽器はヴァイオリンであり、雫のしたためる物語はメランコリーとメルヘンの世界である。両者とも日本に由来しないところをアイデンティティの主軸に据えている。彼らは文化的根無し草だ。もちろん日本文化に回帰すれば無条件で是とされるものではないが、雫や聖司を見ていると、故郷というフィクションを求めて暴走していったジョン・デンヴァーを思い出してしまうのである。ジム・ジャームッシュの初期作品に妙に近い。文化的根無し草で、カルチャーにアイデンティティを求めるしかなく、帰るべき故郷などない。彼らは歌を口ずさみながら、たださすらうしかない。

『耳をすませば』の人気は、見事に作画された「聖蹟桜ヶ丘」という、一種理想化された郊外の風景と、空想めいたファンタジア、オシャレな西欧要素、カントリーロードという歌にあると思われるが、どれもその所在はあやふやなものだ。この映画の計算されたあやふやさ、所在なさ、根無し草な感じこそ、良くも悪くもこれ以上ないほど、郊外に住む(住んでなくとも)我々の姿を活写してるし、だからこそみんな惹き付けられるのだと思う。

結び -宮崎駿のメッセージ-


あまりに瑞々しく甘酸っぱい青春模様は、観ていて恥ずかしくなる場面もあった。しかしこれは、自らの青春や思春に痛恨の悔しさを残す大人からの挑戦状である気がしてならない。ある種、理想化されたこれ以上のない出会いに、ありったけのリアリティを付与しながら、生きることの素晴らしさをぬけぬけと声高らかに説くという挑発である。

しかし、ただ甘いだけの憧れの恋愛模様ではなく、現実としてタイムリミットの迫る青春を描いている。夢見がちで楽観主義の雫を「時間は夢を夢のままにさせてくれない」「決めなければいけないときが、いつかくる」と焦らせたのは、他ならぬ受験であり、待っている進路である。

生き急ぐように物語を書き終えた雫に、西老人は言う。「雫さんの切り出したばかりの原石を、しっかり見せてもらいました。よく頑張りましたね。あなたは素敵です。慌てることはない。時間をかけて磨いていってください」

押し付けがましくない大人のメッセージの、なんと尊いことだろう。

自らの青春の遺恨を作品化するなかで、理想的な男女の出会いを臆面もなく描き、若者をかきたてる宮崎駿のメッセージに、西老人の意向は反映されていると捉えるべきだろう。

雫も聖司も、間違いなくそこに向かっているのだ。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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