たった一度のほんの一瞬なのに、それがこんなに美しい『生きてるだけで、愛。』

2019/11/10

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生きづらさを感じるとき、自分について駄目だなぁと思うとき、大袈裟に言えば人生に絶望したとき。そうでなくても、ごくわずかでも悲しい気持ちになるとき。なによりも沁みる映画だと思う。


趣里が受けとめた寧子の人生



趣里演じる寧子の言動は、激しい自己嫌悪から自分を痛みつけさえする一方で、生きていくうえでの不満が他者への攻撃としてあらわれる側面もある。ただ、躁鬱という病の渦中に深刻で重々しいドラマではなく、どことなく感じるユーモアや、クスリと笑ってしまうようなコミカルな演技で魅せることで、作品全体をとおして生き生きとした生命力を与えている。まとまりのないエキセントリックな生活には、遠かったはずの寧子に次第に近しさを思わせる描写がふんだんに活写される。

そこには、世間一般から想起される躁病鬱病へのパブリックイメージや、偏見や色眼鏡をフィルタリングしたのではない、「寧子の人生を一身に引き受ける」趣里の覚悟があり、この物語の魅力は、そこから立ち上がってくるのだろう。

寧子は甘えていると言われるし、甘えていると思われているだろう。しかし彼女は、感情の舵が利かなくなって時に爆発こそするが、「理解してほしい」「救ってほしい」などとはこれっぽっちも思っていない。実際に胸中でどう思っていたかまでの詳細な描写はないが、他者への依存や周囲との駆け引きが作中で描かれていないのは意味深長である。

津奈木に対しても、だ。

ラストシーンで訴える寧子は「私にぶつかってきて」「私とおなじ熱量で生きて」と説くが、本人が問うように、また津奈木が応えるように、それは依存ではない。寧子は彼に優しくしてほしいとか、守ってほしいとか、そういった感情は持っていない。

すべては、自分で解決するべきことであると、寧子自身わかっているのだ。自分のつらさを自分で背負っている、だからしんどい、だから苦しい。自分のつらさは津奈木のものではないし、それをぶつけられたら津奈木もNOという権利はある。そうすれば恋人の関係は終わるだろう。どういった状況であれ、自分の苦しみで他人を振り回さない寧子は人間関係のルールにきちんと則って、苦しみながらも生きている。


眼で語る菅田将暉と、寧子と正反対の津奈木



その津奈木だが、物静かで理解があるようでいて、実体はただのらりくらりと寧子を躱しているにすぎない。

ある意味では「普通」な人間である津奈木は、寧子と違って内面を口にしない。望まない毎日に波風を立てまいと、いまにも壊れそうな危うさをたたえている。菅田将暉は、鋭い眼光と、無表情かつ無愛想な態度だけで、津奈木の限界値を演じている。

浮世離れした魅力や、人懐っこいキャラクターなど、これまで演技の振り幅には定評のあった菅田将暉だが、今作でみせた「疲れ切った」役作りは、キャリア史上これまでになかったものではないだろうか。考え過ぎかもしれないが、2018年の日本のトップを走る俳優がこの役を演じることに、偶然ではないシンパシーを感じる。

一見優しいようであるが、実害がない程度にやり過ごす津奈木の生きかたは、それゆえに寧子とはまったく違う方向を向いている。さらに、仲里依紗演じる津奈木の元恋人・安堂の登場により、「津奈木の寧子を想う視点」「安堂が寧子を否定する視点」「寧子の主観的視点」の三点が寧子の真上で交錯し、観客の感情を一点に絞ることなく、複雑多角に導く手法がとられている。


寧子の抱えるもの、簡単なことなのにすごく難しい試練



カメラが寄ったときの趣里の虚ろな瞳には、現状にたいする絶望が映っている。劇中でこれでもかと感情を爆発させた寧子が、文字どおり「暴走」していく姿、体のすべてを使い切るかのような一世一代の趣里の演技に、言葉を失ったひとはきっと大勢いただろう。

閉店後のカフェで寧子が投げかける「あの…、私、ほんとになんとかなりますかね…?」という台詞は、表情といい目遣いといいすべてにおいて、極めて端的に彼女の不安を体現している。そしてそれにたいして、口安く、気軽に、なんの考えも論拠もなしに「なんとかなるよ、若いんだし。いま駄目でも、ずっと駄目なやつなんていないんだから」「家族みたいなもんでしょ」と応える村田夫妻と、同席した同僚の莉奈は、寧子にとって無上の居場所だった。

しかしそこまでの幸せを享受してもなお寧子は、ウォシュレットの件で、自分を理解することができない周囲のいいひとたちに絶望することになるのだ。

たったこれだけのことと言ってしまえば、それまでのことではある。たかがそれだけにすぎないことは本人もよくわかっている。しかし、些細で、些末で、些事にすぎない、どうしようもなくちっぽけな棘にも満たない引っかかりが、病気の人間にとってどれほど重大な恐怖であるか、知ってほしい。気づいてほしい、自分にとっては容易にこなせる生活上のほんのちいさな「生きること」が、こんなに難しいひとがいること。

津奈木にハンバーグをつくるためにスーパーに行き、ミンチがなかっただけで調子を崩し、卵を床に落として愕然とする寧子。あるいは、家に帰って、電子レンジを使おうとするとブレーカーが落ちてしまい、大声で泣きだす寧子。「たったそれだけ」と思うだろうが、それが寧子にとっては人生と尊厳をかけた大きな挑戦であったことを、認めてくれるひとは簡単にはいない。


結び -それでも、ほんの“一瞬”でもわかりあえたこと-



「なんで私と三年も一緒にいたの?」と、ラストシーンで寧子は津奈木に問いかける。生きかたの違う二人が三年間ともに過ごせたのは奇跡でもなんでもない、むしろ生きかたが違うからこそである。寧子が言うように、似たように生きて、似たようにぶつかっていたら、きっと二人の生活はもっと早くに終わっている。

そばにいることで、溝が深まるばかりで、すれ違うことで、どんどん孤独になっていった。そんな三年間だったかもしれない。それでも最後に寧子が、二人が共有した“一瞬”のおかげで生きていると肯定できることに、唯一の救いを感じる。

このシーンで赤いライトに照らされた寧子の表情こそ、この映画のもっとも美しく、艷やかに大人になった主人公の湛えるそれだった。夜を、街を、空気を、これ以上なく耽美に焼き付けたフィルムの上で、津奈木が寧子と出会ったその日に、血を流して走る青いドレスの彼女に見た美しさは、これだったのではないだろうか。



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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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