ともあれ、浅倉南はすごい。
なにがすごいって、その名前が出ると、いまだに賛否両論で大盛り上がりになるほどの「吸引力」を持っている。特に、30代~40代女性には、個人的恨みがあるわけでもないのに、いまだに「浅倉南、大っ嫌い!」というひとたちがいる。
浅倉南は容姿端麗で成績優秀、スポーツ万能で、モテる。これじゃあ同性に嫉妬されてもさもありなんだ、と思われがちだが、じつは浅倉南の擁するポイントはそこにとどまらない。言いかたを変えれば、「容姿端麗で成績優秀、スポーツ万能で、モテる」だけで、女は女を嫌わない。
では、なぜ浅倉南を嫌いなひとがいるのか。
それは、一般的に説明される彼女のパブリックイメージからこぼれたところに浮かぶ、浅倉南のパーソナリティの本質にある。端的に表すなら、「自分の魅力をよく知っていて、それを利用している」点である。堂々としたたたずまいで、媚びることも謙ることもせず、ときとして男性を怒鳴りつける。それがとても魅力的で、だれにも嫌われない自信があることを知っているからだ。凡庸な人間にとって、この事実設定は重く来るものがある。
また、浅倉南は「〜よ」や「〜じゃないわよ」といった<女の子喋り>をベースとしつつ、部分的に「〜だぞ」「お、感心感心」などの<男の子喋り>をよくする。「オレ、〜だぜ」とかいうがさつな男喋りなら幻滅されていただろうが、「男の子っぽい」のは可愛い。というか、自己愛のあらわれにも見え、一種のぶりっ子にも感じられる。「ボクっ娘」のメンタルにも近いかと思う。
それが、見え見えのあざとい「天然」の場合は、むしろ清々しいだろう。しかし浅倉南は計算でやってないから分が悪い。好きな男(達也)がいながらも、別の男(和也)に「自分の夢」として「甲子園に行くこと」を約束させる。それを「小悪魔」と言うひともいるが、計算ではなく、それが彼女のパーソナリティの本質であって、真正の天然だからだということだと思う。
『タッチ』の浅倉南ほどイメージと実際の作品が乖離してるヒロインはいない。あだち充が本当に描いた南はバリバリのキャリア志向の才女で、まったくマネージャー向きではない。それなのになぜマネージャーの代名詞みたいになってるかというと、みんなが学生時代の記憶の女子マネへのステレオタイプを彼女に重ねるからである。
あだち充のヒロインというのはぜんぜん男に都合が良くない、完全に男を振り回す自己中心的な女性像で、あだち充のヒロインが主人公の男の子にたいし、語尾にハートマークをつけて「大好き」と言うようなシーンは見あたらない。「いやーんエッチ」すらほぼない。原則的にそういったルールを守った女性像をあだち充は描き続けている。
だからじつは、『タッチ』って子どもが読んで全部わかるような話では全然ない。「顔がおなじ双子の片方を選び、片方を選ばない理由はなにか」「双子の一人が死んだら残った一人を愛せるのか」という、純文学的にものすごく暗くて不気味な人間のアイデンティティをテーマの主軸に据えて描いている。あの美しい絵と軽やかな物語のなかに、見るも深い、ふれるに恐ろしい主題を隠している。
大人になって『タッチ』を読むと、そんなことさえ考えるんだ。