心に優しく甘い『あん』が、だれかに沁みるということ

2019/11/11

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河瀬直美の思い描く世界には、いつだって「木」がある。

「あん」は、満開に花ひらく桜の季節からはじまる。ちいさなどら焼き屋。そこに訪れる中学生たち。そして、樹木希林演じる徳江──。

先に述べておくが、この映画の中核を担っているのは日本に生きる自然と樹木希林の魂だ。役者である以上、「このひとにしかできない演技」というものは多かれ少なかれ一流の者なら持っているが、樹木希林の演じたそれは、技力や人柄など以前に存在する、役者本人に宿っている「良質な魂」そのものだ。それが、世代を超えて、国境を越えて、多くのひとを魅了する説得力につながっていることは言うまでもない。

樹木希林は、ものすごく滑舌がいいわけでも、訴える熱量が並外れているわけでもない。また、優れた身体能力や、年齢を感じさせない美貌があるわけでもない。

しかし、彼女は役者として真に美しい。

樹木希林の台詞にあらわれる「言葉」は、語学上の意味も、音声学上の意味も優れて備えていることはもちろんだが、それら以上に、言葉の持つ大きな感情があるように思う。言霊とか、言葉の力などという生易い概念ではない。それは、樹木希林が心血そそいで演技をしているわけではなく(もちろんそういった理由もあるだろうが)、鑑賞者のだれしもが素直に五感をあずけることができるという圧倒的な普遍性である。

たんに整っていて、美麗端正なことと、樹木希林の美しさは、まったくもって非なる美である。

そんな樹木希林の演じた徳江。生きかたは、極めて平易平明である。自然の声に耳を傾け、また自らも大自然の一部として生かされていることへの感謝を忘れず、あるがままに生きている。それは、社会から必要とされず、人権さえないままに生きなければならなかった徳江が身につけた懸命のなかの感性なのだろう。身体は言うことを聞かない、それでも心は常に自由でいる。


ねぇ、店長さん。私たちはこの世を見るために、聴くために生まれてきた。だとすれば、なにかになれなくても私たちは、…私たちには、生きる意味が、あるのよ。


どら焼き屋の店主である千太郎に向けた徳江の印象的な台詞である。だれかに必要とされたい、愛されたい、認められたい、知らないあいだに見栄やエゴにまみれて生きている我々が、徳江のように生きることは、内情とても難しい。

成功したい、名誉がほしい、見返したい。自由になるため、自らを解放するために手に入れたいと思っていたものが、逆手に首を絞めて窮屈になることがある。それらに縛られて生きていることがある。

なにかになれなくても、生きる意味はある。

成功しなくても、名誉がなくても、見返せなくても。あたまでは解っていることを受けとめて自然に体を任せたとき、こんなにも自由で、こんなにも満ち足りていることに気づくのかもしれない。

生きていくことは、愛されていくことなのだと、大袈裟な身振りもなく気づかせてくれる。作中に訪れる二度目の春に、桜の木々の下で千太郎が「どら焼き、いかがですか」と声を張るシーンは、それを象徴する響きを湛えていたではなかったか。

徳江の話す自然への敬意「あずきが通ってきた道」は、実は徳江の辿ってきた人生そのものを示していたのではないかとも思う。雄大で美しい、しかし、ただ美しいだけではない。生活に待ち受ける苛烈酷烈な大自然の厳然な態度は、徳江が浴びてきた偏見であっただろう。はじめから崇高な人間などいなくて、そのひとの歩んできた道のりにあったものが、人間性を象っていくのだ。

「あずきの声を聴くの」

あんをつくるうえで必要な手間であり、時間をかけることこそが、思いを呼ぶ秘訣だったのかも知れない。とても綺麗で、複雑で、美しいシーンだった。

また、療養所を訪ねた千太郎とワカナに、徳江が壮絶な過去を話す場面。このまま止まってしまうかのような静かな自然に取り囲まれながら、二人の心情の揺れ動く様子を木々の梢が寄り添い合う葉音でざわざわとそよがせている。河瀬直美は派手な演出とドラマティックな物語をあえて排した。木々の声、桜の歓び、風のささやき、朝陽や夕陽の挨拶、月の語りかけるストーリーや、雨の持ち寄る不安。発声言語としての言葉はなにひとつ存在しないにもかかわらず、観る者の心の奥底にたしかに訴えてくる感情がある。自然の魅せかたが本当に巧い。

大作と呼べる映画では決してない。重苦しい主題を置き、エモーショナルな演出はない。主演を務めるのはイマをときめく若い俳優女優ではない。映画業界のヒットの法則には書かれていないセオリーでつくられている。しかし、それがこれほど多くのひとの心に届いている事実は、一度たしかめてみてもいいんじゃないかとは思う。

ハンセン病を取りあげた映画は多い。松本清張の『砂の器』、遠藤周作の『愛する』。海外でも根強いテーマであるゆえに、『ベンハー』『モーターサイクル・ダイアリーズ』など例はとどまらない。『もののけ姫』にも登場する文化的に重要な主題である。スポンサーは集まらないだろうし、ヒット性も薄そうなこのテーマ。立ち向かった河瀬直美には、個人的に盛大な喝采を送りたい。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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