仁尾智の駄目なところ、僕たちだけが好きな、仁尾智の不器用なところ

2020/04/06

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むかしから、いい加減な恋愛ばかりしていた。

映画『愛がなんだ』を観たときに、主人公、あるいは主人公を取り巻く人間たちの恋愛模様にいたく共感したのも、自分がこういう駄目で不器用な恋愛ばかりしてきたせいという部分が大きいはずだ。

ちゃらんぽらんと付き合って、のらりくらりと別れてきたから、年齢のわりに過去に交際した女性の数は多いほうだと思う。別れたいまも友人関係が続いている駄目なパターンもたくさん持ち合わせている。

しかし、別れた女にたいする思い出というのは、別れかたがどうであれ「怒り」と「反省」を孕むというのが僕の場合は大きい。いまだって、中学のときの彼女と遊んでいると、当時の記憶に基づく怒りの思い出が沸いてくることがあるが、それは己が未熟さに起因するところでもあるので、甘受して猛省するばかりだ。


君とした「ひみつ道具でどれが好き?」みたいな話ばかり思い出す


突然だが、これは歌人・仁尾智による「ドラえもん短歌」である。

一組の男女が出会い、別れる。その過程には途方もない出来事がある。ドラマティックな運命に紐づけられた思い込みや、幸せそのものを満身で受けとめた時間。なんでこのひとはこうなんだろうと、解り得なかった他人という壁。あるいは、あのときこうしておけばと悔やみながら考えるたられば。心を違えてしまったけれどともに記憶してくれた毎日…。

この歌の主人公は、そんな大仰なロマンスや、痛恨の後悔、怒りや憎しみといった大きなテーマを超えて、他愛なく交わした何気ない会話を、幸せの記憶としていつまで経っても憶えている。

ドラえもんファンとして個人的に身に憶えがない話ではないが、ドラえもんとはそもそも「子ども時代の終わり」を含有する作品である。大人になっても真剣にドラえもんに救われている僕のような人間が多いことも事実だが、反面もっと多くのひとたちが、子どもから大人になるどこかのタイミングでドラえもんを「卒業」している。

そんな背景があるからこそ、大人なりの「ドラえもん論」を説くときは馬鹿にされないように語調に熱を帯びるし、となりでその熱量に辟易するかつてドラえもんを「卒業」したひとの姿もある。ドラえもんファンならよくある話ではないだろうか。

しかし特筆すべきは、僕であれば「馬鹿にされないように」というプライドが働いてつい熱が入ってしまうドラえもん話を、この歌の主人公はナチュラルボーンで展開していたであろうことが拝察される鈍感さである。となりに座している女の子は、「このひといつもドラえもんの話してるなあ」と内心呆れ返っていたに違いないし、「馬鹿にされたくない」「一歩踏み込んだドラえもんの解釈を」などはおかまいなしに、夢中になってドラえもん話を続けた空気の読めない男の姿がありありと目に浮かぶ。

後悔もあったろう、どうしてと解らなかった感情もあったろう。しかし、それらはすべてが過去の恋愛の些事にすぎず、大切としてこの男の心に残り続けるのは、小さくても幸せである。いい加減な恋愛ばかりをその場まかせで続けてきた僕は、だから、主人公の純真な感情に心打たれ、自分にはない純朴さに感動するのだ。


自転車で君を家まで送ってた どこでもドアがなくてよかった


仁尾智を代表する短歌といえば、むしろこちらの一首だろう。どこでもドアは便利で、だれもが「もしもあったら…」とその利便を求めるような魅力的なひみつ道具だ。しかし、その利便性がない部分に起こり得る出来事があり、その瞬間に芽生える感情もある。ドラえもんという圧倒的な夢をまえに、現実としてはいまなお叶わない不便な時間、あるいは目的までの過程を、すべて一身に背負い込む懐の深さを持っている。

しかし、少しロマンティックすぎる。ほかの作者が詠んだ歌であれば、そんな感想もなかっただろう。美しい青春。汗と涙と、君との思い出と、甘くて、酸っぱい。それも仁尾智のこぼれたアイデンティティの片鱗ではあるが、本質ではない気がする。


僕たちが今進んでる方向の未来にドラえもんはいますか


これも綺麗で、美しい歌ではある。しかし、美しすぎず、一歩踏みかたを誤れば、現実を風刺した批判的な歌になってしまう要素を孕んでいる。そこを、踏みとどまって押し殺して(る自覚は本人にはおそらくないが)、さきの歌にあるような純粋にドラえもんを願う感情につなげている。

皮肉でもなく、揶揄でもなく、このさきの未来にドラえもんがいたらいいなあ。社会を跋扈する異論反論、現実を飛び交う苦言雑言、インターネットで四六時毎晩シェアされるロクでもないニュース…。それらの真っ只中にいる我々のなかに、これほどドラえもんを清澄に願える人間が、いったいどれだけいるだろうか。出世して、重役につくようなタイプであるとは思えない。生きかたの上手なひとでは絶対ない。

そういう純真さ、まっすぐゆえに器用の効かない左手のような感覚、それが、仁尾智のアイデンティティの中心に据えられている本質ではないだろうか。

仁尾智の書き出す不器用な人間像は、しばしば文芸作品においてテーマとされる無骨で融通の効かない男の美学とは違い、シンプルに要領の悪いのび太くん気質である。作者本人も相当生きづらい駄目なひとだろうなとはけっこう本気で思う。

だからだろう、描きだすそのまっすぐな生きかたをもつ人物像に感情を共鳴させるのだ。


空腹に耐えられなくてパンとしてむさぼるアンキパンはしょっぱい


せっかくのひみつ道具を、空腹を満たすために食べる主人公。しょっぱいだろうな。そんな状況まで追い込まれるなんて、生きるのが下手すぎる。でも、それが仁尾智である。

しょっぱさを、人生の酸いを知っているから人生に説得力があるという話ではなく、また、駄目なところに共感できるから素晴らしいとかいう話でもなくだ。不細工な生きかた、紛れない、それが仁尾智であり、僕たちの「仁尾さん」なのだ。

愛される、理由なのだ。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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