ゼロイチ問題はイエスでノー

2020/07/13

essays

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作曲というと聞こえはいいが、要するに自分が好きな歌をひたすらにつくり続けている。

「作曲ってどうやってやるんですか?」「作曲ってアレですよね?」みたいな大掴みなトークが苦手なので、日頃からそういった趣味を公言することは少ないのだが、先日どうしても避けられなくってその話題を口にしてしまった。

話の輪のなかにいたMさんが言った。「すごいですね。わたしは手芸が好きなんですけど、ハンドメイドで雑貨を販売している作家さんのことをいつもすごいと思っているんです。レオさんみたいに、ゼロからイチをつくるようなことって、わたしにはできないから」

このひとに限った話ではないのだが、僕の最も苦手とする論調である。この「ゼロからイチ論」は、ライターやミュージシャン、アーティスト、と括ってしまえば概論っぽくなってしまうが、俗にいうクリエイティヴ(この言葉も僕はあまり好きではない)なことを趣味や職業にしている作家業の人間にとっては、よく言われる言葉のひとつだ。

「ゼロからイチをつくるのはすごい。だれかが書いたスケッチに線を引いて、イチをニにすることならできるが、まっさらな白紙からスケッチを始めることは自分にはできない」

大袈裟ではなく、そう言っているように聞こえてしまう。

学生時代に文芸学を学び、趣味の音楽に限らず、詩歌や小説、絵画や簡単なイラストなどを量産せざるを得なかった環境下で呼吸をしてきた自分にとって、もしその制作のことを指して「ゼロからイチ」をつくっていたと仮定するならば、僕の答えは二つだ。

ひとつ、「ゼロからイチをつくっている人間なんていない」

ふたつ、「人間はみな等しくゼロからイチをつくっている」

どうみても矛盾しているし、なにをか況やといった感じだろうが、ちょっと最後まで読んでほしい。



✳︎



音楽についての話をすると、現在ポップミュージックにおいて表現されるすべてのスタイルの礎は、1960年代にイギリスのロックバンド、ザ・ビートルズがつくったものだ。誇張ではないし、わかりやすくするために粗く噛み砕いたわけでもない。星野源、米津玄師、あいみょん、などのポップシンガーはもちろん、AKB48、EXILE、BiSHなど偶像化された音楽の在りかたや表現技法、あるいは日本に限らずとも、この世界に存在するありとあらゆるジャンルの音楽は、すべてビートルズが始めたと言われている。

そもそもチャックベリーやバディ・ホリー、リトル・リチャード、先人たちがつくりだした50年代のロックンロール。それらを発展させたのがビートルズであり、彼らはディズニー音楽や民族音楽、ジャズ、クラシック、ハードロック、ブルース、カントリー、ダンスミュージックなど、すべての音楽性を柔軟に取り込んで、やり尽くしてしまった。

現代の既存の音楽は、ビートルズの遺産を食いつぶしているに過ぎない、とは有名な話だ。

この話に則ったとして、では、ビートルズは「ゼロからイチをつくった」のだろうか。既存のポップミュージックの方法論を網羅しているという点ではイエスだろう。しかし、そのビートルズにさえも、前時代を築いた偉大な先駆たちが他勢いるなかで、彼らがしていることは手法としては新しいが演奏や歌唱そのものがまったく新鮮なものだったわけではない。これまでは、プロの作曲家がつくった歌を、プロの演奏家が演奏して、プロの歌手がうたっていた。それらを、すべてひとつのバンドでやっているに過ぎない面ではノーということもできる(もちろん、ただそれしきのことが歴史上において革命的な出来事であったことには敬意を表して)。

もうひとつ例を挙げよう。文学ではどうだろうか。

ある作家のあるひとつの作品の背後には、さらに途方もなく広大な言葉の世界がある。三島由紀夫の作品の背景には、必ずと言っていいほどトーマス・マンの存在がある。マンを読むと、今度はゲーテが。するとゲーテの作品にはシラーが出てくる。このように、一人の作家には、延々と続く連鎖がある。またあるいは一方で、ドストエフスキーが出てくる。そうするとゴーゴリが…といった具合に、読書の道順を示してくれる。

どのひとつの連鎖が欠落していても、その作品は生まれてこなかったかもしれない。言葉というものは、地球規模の非常に大きな知の球体であり、そのほんの小さな一点にのみ光りをあてたものが、一冊の本の存在である。ひとつの作品を支えているのは、それまでの文学や哲学、宗教、歴史などの膨大な言葉の集積である。さて、では作家は、ゼロからイチをつくっているだろうか?

それは否、そして応である。白紙に筆を走らせた三島由紀夫がゼロからつくったイチの背景には、マン、ゲーテ、シラー、ゴーゴリといった膨大な知の連鎖があり、三島は彼らのその体験から物語を書いたに過ぎない。日本の近代文学の起こりは明治18年、坪内逍遥の『小説神髄』だが、それ以前には戯作文学や風刺文学の存在がある。

人間が、等しくゼロからイチをつくっており、そして、ゼロからイチをつくっている人間などいないという、矛盾の論拠はお解りいただけただろうか。



✳︎



話を元に戻すと、Mさんが考えていることが、いかに見当違いであるかに気づく。僕だって、作曲だなんて気持ちいい聞こえかたでやっていることは、乱暴に言えばビートルズの焼き直しである。それはビートルズがつくったイチであり、ビートルズを聴いて育った僕のイチでもある。

Mさんのような思考の持つひとは、すべからく自分が創造から逃げていることを自覚するべきだ。みんなだれしも、メモを取るようにスラスラと個性を表現しているわけではない。そこに至る膨大量の体験がり、それをかたちにすることは、決して容易いことではない。対峙して向き合って、泣いたり咽んだり、苦しい思いをたくさんしてつくっていくものである。

「難しいことですか?」と訊かれて、「簡単だよ、だれにでもできるよ」だなんて、謙遜でも言いたくないが、自分のつくるイチを、「限られた技能を持つ者だけが成し得る優れた作品」だとは、もっと言いたくない。

もっとも、自己と対面しなければ呼吸もままならない世界で溺れてきた僕にとってみれば、それでしか表現し得ないピースがあると無根拠に強く信じる気持ちも、多少は必要だとは思うけども。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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