勝手にディスク大賞2020

2020/12/24

music

t f B! P L
2020年に聴いてもんのすごくよかったCDの感想大会やります。
原則的にはオリジナルフルアルバム。でもE.P.やミニアルバムにもいい作品はたくさんあったよ。

春を待つ僕ら / HoSoVoSo



瑞々しいバンドサウンドで彩られた1stフルアルバム『春を待つ2人』(2019年)や、山奥でピアニストとマイク1本で1発録りした生々しい音像のコンセプトアルバム『DUO』からの選曲に加え、新曲を交えた今作『春を待つ僕ら』。

HoSoVoSoの歌は原則的には優しくて、あたたかみを感じさせるが、歌そのものの内面には棘があり、生活に土着した人間くささがある。彼の歌はメッセージ性やストーリー色が強いものではなく、日常で感じ取った情景を極めて自然に「音楽」として具象化している。狭い部屋の中で録音されたはずの曲達から、まるで写真のアルバムを見ているように情景が浮かんでくる。

「峠」、この歌をうたえるこのひとは本当にすごい。彼の有する原風景を映写しながら、離別への切なさに類する彼の感情が自分のこととして現実になる感覚がある。誤解を恐れずに言えば、そして語彙の稚拙さは承知で表現してしまえば、この歌をうたえるHoSoVoSoは変態である。天才とか優等生とかじゃない。理に沿った完璧な演奏には絶対に付け入る隙のない扇情的な不安と感傷的な懐かしさを孕んでいる。

星野源『ばかのうた』や、細野晴臣『HOSONO HOUSE』のように、何年経っても、生活のなかで折々に訪れる光景を収めた写真を見返すように聴き返したくなる一枚である。



Holy Nights / MIYAVI



所属事務所の移籍後初となる、12作目のオリジナルアルバム。さまざまな問題に直面している世界に目を向け、困難な時代を共に生き抜こうというメッセージは頼もしく力強い。躍動的なビートとスケールのあるメロディを高らかに鳴らすMIYAVIは、ロックンロールがただソリッドなものではないことを証明している。f(x)のメンバーであるAMBERや、オランダのシンガーソングライターFÄISといったゲストアーティストの面々、それはきっと、ボーダーレスに音楽を鳴らすMIYAVIの精神を象徴しているだろう。

沢田研二「TOKIO」や、矢沢永吉「Tomaranai ha-ha」のカバーでは、時代を超えて輝きを放つ名曲にモダンな意匠を加えている。他者と寄り添い生きることの大切さを歌う「Hands To Hold」には、社会貢献活動にも積極的に取り組むMIYAVIの信念がこもっている。

リリック、アレンジ、ギタープレイなど、すべてのサウンド面にMIYAVIが迎えた新たなフェーズが反映されている。つながりが試される現代で、音楽という表現形態の機能性について、MIYAVIは考えることをやめない。前作以前の彼は、とにかく「ギターで勝負したい」という気持ちが強かったように思う。日本のアーティストとして、ギターでうたって、ギターで世界を踊らせたかったと思う。もちろんその思いに変動はないだろう。ただ、それ以上に、もっと自分の言葉で強くメッセージを伝えたいという欲求が今作には見える。時代の流れも、サウンドのクオリティさえグローバルであれば、言語は関係なくなってきている。整ったことが言えていなくてもいいから、とにかく自分の言葉で、まっすぐな歌を書いてうたおう、それがMIYAVIの精神論の根元に据えられているように思う。



We Are Chaos / Marilyn Manson



収録曲はすべて、世界がウイルスに覆われるよりまえに書き下ろされ、録音された。

前々作『ザ・ペイル・エンペラー』と前作『ヘヴン・アップサイド・ダウン』の制作を主導し、マンソン自身「ジョニー・デップやYOSHIKI (X JAPAN)と並ぶ親友」とまで語っていたタイラー・ベイツは現場を離れ、本作では新たにシューター・ジェニングスが共同プロデューサーに迎えられた。ウィリー・ネルソンやジョニー・キャッシュと並ぶアウトロー・カントリーの偉人=ウェイロン・ジェニングスの息子である。

発売日は奇しくも9月11日。なにかしら因縁めいたものさえ感じるが、それ以上に心に高鳴るのは期待と希望である。マリリン・マンソンの音楽は良きか悪しきか聴くひとを選ぶ不気味さが常に傍らにあったが、今作でマンソンが手がけたのはどれもポップで開放感のある歌ばかり。特に2曲目に配置されたタイトル・ナンバーから連続する前半4曲のパワー・バラード路線は、きっと世界じゅうのリスナーを驚かせる。

アルバム後半に入って、ポスト・パンク風のギターもフィーチャーしたヘヴィな「インフィニット・ダークネス」や、シャッフルビートを効かせた「パフューム」で巧みにバランスを取りつつ、「キープ・マイ・ヘッド・トゥゲザー」、「ソルヴ・コーアギュラー」(※このタイトルは「メンデスのバフォメット」の両腕に書かれた錬金術に関連する言葉)、そしてドラマティックな展開を聴かせる「ブロークン・ニードル」のラスト3曲は、統合的に新次元へと到達したマリリン・マンソンをこれでもかとばかり見せつける。

むかしからのファンであればあるほど、初聴時には違和感を拭い切れないかもしれない。もっと渋いブルーズ路線を期待していた僕も正直そうだったけど、何度か聴き込んでいくうちに妙にストンと落ちるなにかがある。果たしてマンソンの決断がどんな結果を引き起こすのか、興味深く注視していこうと思う。




THE KEBABS / THE KEBABS



デビュー作にしてライヴ盤。きっと、良くも悪くも「遊びバンド」の感覚でつき走るロックンロールにとって、リリースや全国流通すらもオマケみたいなものなんだろう。サブスク全盛のいま、わざわざ会場限定限定でCDを出すほうが、音楽の聴きかたや音源の手に入れ方としてきっと楽しいものがあるという考えは、田淵や佐々木のメインバンドの哲学にも近い。オールディでダーティ、しかしテイスティ。

勢いでやっていく良さは絶対あるのに、ちゃんとすることで損なわれる部分もあって。ロックバンドを命がけでやってきた経験があるからこそ出せる言葉やリフをパソコンに取り込んでアレンジしていくと、しっかりしたアートになる反面、いい加減な魅力などは失われるだろう。でも、THE KEBABSはそっちに全振りしている。それは、ミッシェル・ガン・エレファントやピロウズに影響を受けてきた田淵智也の音楽性もさることながら、常にガレージロックを鳴らし続けてきた佐々木亮介との作用も大きいはずだ。

ふざけてやっているように見えるかもしれないが、ロックにたいする憧れや、ロックバンドのアルバムへの美学はしっかりとしていて、そこのマナーやアティチュードからは外れていない。破綻を恐れない精神に加え、これまでのバンドの常識をなるべく入れないようにしてやっているから、いい意味であたま空っぽで楽しめるし、その場で新しい楽しみを作っていける気がする。準備をしない面白さを体現する希少なバンドである。



THE THIRD SUMMER OF LOVE / ラブリーサマーちゃん



同世代アーティストの中でも屈指のヘビー・リスナーである自身の引き出しを開け放ち、シューゲイザーやエレクトロポップ、ヒップホップなど様々な音楽的スタイルを取り入れながら作り上げた器用な前作に比べると、本作は彼女が信頼するツアー・ミュージシャンたちと共に作り上げた、一貫してバンド色の強い内容である。「いい曲を、いいアレンジで、いい演奏と共にパッケージする」という、極めて真摯かつシンプルなロックの理想像への思いが注がれたそのアンサンブルには、彼女のルーツであるブリットポップのエッセンスが散りばめられ、眩しいほどの「音楽愛」がどの曲からも溢れ出している。サイケデリックなアートワーク、そしてアーティスト・イラストにフィーチャーされたストライプ柄の紙コップを含め、それらすべてがアルバムの本質を伝えるシンボルとしても機能している。

「今、この瞬間」を余すところなく捉えようとする切実なまでの思い。それは、嬉しいことも、悲しいことも、悔しかったことも、純度を保ったまま楽曲に結実させる。その「誠実さ」「正直さ」のためには、傷つくことさえ厭わないという「表現者」としての覚悟である。

メロディや歌詞からのリファレンスはない。どれだけ「傷つけない」ということを大事にしても、傷つくひとは傷つく。感情は、だから仕方ない。なにかを思うこと、たとえば、ものすごく残酷な出来事にたいして扇情されてしまうこと。感情はコントロールできない。だからこそ、そういう感情の受け皿になるのがラブリーサマーちゃんの「音楽」なのだと思う。善悪で割り切れることじゃない。

マンチェ経由でグルーヴ・チューブに片足を突っ込んだような「More Light」、オアシスばりのギター・ソロから終盤はストリングスも交えてビートリッシュな大団円を迎える「LSC2000」(弦アレンジはCRCK/LCKSの小田朋美が担当)、「ブラーの“Song 2”とキンクスの“All Day And All Of The Night”をドッキングさせたような曲」だという「どうしたいの?」など、あちこちに影響源が透けて拝察されるのは、音楽を無心で楽しんでいることの証明だ。そのなかでも、気だるげな歌声とヘンテコな音色のトゥーマッチ感がクセになるローファイ・ポップ「I Told You A Lie」は、彼女のいまのモードを投影した新境地と言える。

周囲の環境や相対的な評価に惑わされることなく、自分の感情や感性に誠実に、自由な気持ちで音楽をクリエイトしていることが伝わってくる本作。そのちょっとひねくれたひたむきさこそが、彼女の音楽がいつでもラブリーな理由なんだろうな。


浪漫 / PEDRO



不条理な人生も肯定して変化する創造意欲による問答無用の傑作である。

4月のEP『衝動人間倶楽部』で新たなPEDRO像の片鱗を垣間見せていたアユニ・D。同作に絡む〈GO TO BED TOUR〉は中止となるも、シングル「来ないでワールドエンド」をEP購入者に配布して脱法アップロード/ダウンロードを推奨する音源拡散企画をSNS上で展開し、6月にはツアー・ファイナルを行うはずだったSTUDIO COASTより無観客ライブ〈GO TO BED TOUR IN YOUR HOUSE〉を配信するなど、意欲的に動いてきた。そして8月に「来ないでワールドエンド」を正式リリース……したんだが、なんとCDには未知のアルバム全曲が収録――そんな〈嘘シングル〉を前フリとして届いたのが、セカンド・フル・アルバム『浪漫』である。

基本的にPEDROはアユニの趣味というか、そのときの嗅覚に従ってつくられている。だから前作とおなじ作品観ではなく、むしろこれまでのアユニ自身では絶対につくれなかった造形が多い。

当初ガレージ路線で構成されていたPEDROはもう過去を振り返らない。その意識をまったく捨て去って、多方面にアンテナを張る生活のなかで、憧れや欲求もまた散っていった感覚だろう。BiSHを始めて、PEDROを始めて、数年間で音楽観がガラリと変わって、ひととの縁も徐々に増えて、人間で喩えるならやっと物心がついてきたころだろうか。喜怒哀楽をどんどん覚えて生活してくなかで、〈人生は意外とロマンティックだな〉と感じるようになったことが、自身にとってどれほどの衝撃だったろうか。

描かれている感情、風景、物語は多種多様だが、一貫しているのは“生きにくさ”とでも言うべき疎外感のトーンだろう。上手く溶け込めない世界の片隅に身を置きながら湧き起こる想いが、各曲で表現されている。追いつめられている人間の感情が生々しく滴り落ちてくるかのような「pistol in my hand」。やりきれなさを抱えながらも諦めてはいない生命の息遣いを感じる「乾杯」。なにも為し得ないまま、ただ日々が過ぎ去って行くことへの抵抗感が滲む「さよならだけが人生だ」。非情な世界に対してギラギラした眼差しを投げかける「WORLD IS PAIN」。ひねくれまくった末の負けん気の歌とで言うべき「感傷謳歌」。なんらかのかたちで疎外感の気配が漂っているが、世界が自分にとって居心地が悪いというのは、居場所を見つけたときの喜びが大きいということも意味する。「浪漫」「愛してるベイベー」「来ないでワールドエンド」などには、大切な存在に身を包まれる幸福が織り込まれている。バンドサウンドと歌声がエモーショナルに高鳴るほどに、穏やかななにかがさり気なく香る。

アルバムで描いている通り、この世は決して我々にとって生き易くは作られていない。淡々と日々を過ごしているはずなのに、理不尽な出来事、厄介なあれこれが絶えず押し寄せてくるのは、一体どういうわけなのか? しかし、そんななかにもあるはずの穏やかなひとときを、骨太でパンキッシュなサウンドで鮮烈に浮き彫りにしてくれる。

人生って不条理で溢れてるけど、意外と浪漫的だよな。Life is hard, life is beautifulだよな。



ZOO!! / ネクライトーキー



ネクライトーキー首謀者である朝日(Gt)は、ご存じのとおり、ボカロP「石風呂」として活動し、並行して「コンテンポラリーな生活」というバンドを組んで活動してきた。ネクライトーキーが当初から石風呂の楽曲をライブで演奏するということをひとつのコンセプトにしており、またそのミニアルバムが石風呂楽曲をカバーした『MEMORIES』だったことからもわかるように、あるいはネクライトーキーのベーシスト藤田がそもそもコンポラのメンバーであり、ドラムのカズマ・タケイもサポートメンバーを務めていたことからもわかるように、この3つのプロジェクトはすべてひとつに繋がっている。というよりもネクライトーキーは、ひとりでボーカロイドを使って曲をつくったり、自らうたってバンドをやったりしてきた先で、ついに朝日が見つけた理想の音楽表現の形態なのだと、彼らのメジャーデビューアルバム『ZOO!!』を聴いて強く思った。

『ZOO!!』の楽曲に刻まれた言葉や思い、さらにいえば「怨念」みたいなものは、石風呂やコンポラで朝日が書いていたものと驚くほど変わっていない。むしろ、より一層色濃い絶望と疎外感が滲んでいる側面すらある。バンドの調子がよくて、お客さんの数が増えて、いよいよメジャーデビューを果たすというこのタイミングでなお、朝日はそういう思いに苛まれ続けているのである。そしてそのことが、『ZOO!!』に決して聴き流せない重みと深みを与えている。タイトルからはふざけてつくったようにしか思えない「ぽんぽこ節」でさえ、実はとことん切なくて寂しい歌なのだ。

ネガティブで卑屈で切ない負け犬根性をロックの力で逆噴射する、それが朝日という男がずーっとやり続けてきたことだとして、『ZOO!!』はサウンド的にはこれまで以上にやりたい放題、バンドとしてのグルーヴもがっちりはまっていて、もっさの歌がもつ天性のポップネスにはますます磨きがかかっている。しかし、朝日は堰を切ったようにおのれの鬱々とした心情を吐き出している。

今作を作るまでの過程でバンドとして強くなり、ぶれない芯のようなものができたことで、朝日もバンドとしてのフォルムを気にするよりも自分を解放することを選べた、ということなのか。あるいは、朝日がやむにやまれず吐き出した思いを受け止めるためにバンドがスケールアップを果たしたのか。卵が先か鶏が先かという話だが、いずれにしても、『ZOO!!』のネクライトーキーはそれまでの彼らとは別物といっていいタフなロックバンドである。もっさ、藤田、タケイ、むーさん、そして朝日。5人それぞれの個性がぐるぐると混ざり合ったポップなサウンドのうえで、朝日はバンドが充実しようがメジャーデビューしようが満たされない思いを書き連ねる。それをもっさがあのポップな声で歌う。するとその「ネクラ」な思いが絶妙にキャッチーな場所にぽとりと落ちる。そうやって出来上がっているのが『ZOO!!』の楽曲たちだ。この上なくにぎやかでカラフルだけど、同時にこの上なくディープ。

相変わらず朝日を襲うのは《なにもないぜ僕ら》という焦燥感と無力感だが、一方「夢みるドブネズミ」で、彼は「ネズミ」の言葉として《「誰がどう言えど関係ないさ」/「俺が決めたから関係ない」》と綴っている。あくまでネズミの言うことではあるが、この言葉はけっこう力強い。やけくそのようでもあるが、これが言えるのは、結局のところいまの状態に自信と手応えを感じているからだろう。

ネクライトーキーの最初の完成形、『ZOO!!』。ここから、また物語が始まる。




Patrick Vegee / UNISON SQUARE GARDEN


結成15周年の昨年は、ベスト盤に野外ライブと乱痴気騒いでお祭り気分だったが、そんなアニバーサリーイヤーを挟んで製作された今作はいつになく洗練されてかつカオティック。これまで同様のキャッチーなメロディで紡ぐリリシズムは、ソングライター田淵智也の骨頂をこれでもかと高い濃度で表している。

各々のプレイヤーとしてのテクニックと、なにが投下されるか予想だにできないスリリングなアレンジメントで沸かせるダイナミックなスリーピースサウンドのなかで、UNISON SQUARE GARDENの楽曲としてはめずらしく、各アルバム曲の物語が物語としての役割を全うしている。既発シングル曲のまえには、必ずそのストーリーにまつわる一節が最後に入っていて、楽曲各曲がバラバラであることはもちろんなんだが、そのなかに必然的な統合性がある。稠密緻密に仕掛けられた責任を感を楽曲たちがきちんと果たしていて、サブスクリプションが流行の前線を走るなかで、音楽を一曲単位ではなくアルバム作品として求める楽しさを教えてくれる。

バンド史上、これほどコンセプチュアルだったアルバムは3rd AL『CIDER ROAD』以来となるだろうか。方向性こそ正反対を向かっている(むしろ4th AL『Catcher in the Spy』に近い)が、メンバーの言葉どおり通常営業を貫く姿勢は、5年まえの「シュガーソングとビターステップ」以降まったく変わっていない。変わらないままに美しいのは、それでも追進を終えずにロックバンドの美学を、シンプルに、極めてラジカルに、求めてきた結果だろう。

どの歌もどっしりと腰を据えてリスナーを待ち受けていて、なにかあたらしいことを仕掛けて驚かせてやろう!というような意図的な作為性が感じられない。どれをとっても、UNISON SQUARE GARDENの楽曲はUNISON SQUARE GARDENの楽曲である、と有無も文句も言わせない強引に近い説得力を内包している。

自分たちにできる範囲のスケール感で、なにか仰々しいものを拵えるよりは、バンドの内側からアンサンブルを楽しんでいる。これまでの延長線上にあって、あくまでプレイヤーである当人たちが飽きずにワクワクしていられることを大事にしているんだなと実感する。

ロックバンドって、本当に楽しい。



PLANET / 佐藤千亜紀



砂原良徳、JYOCHOの中川大二郎、踊Foot Worksのトンデンヘイ、04 Limited Sazabysなど、個人的に所縁の深い方々がスタッフとして携わってくれている、きのこ帝国のvo/gt佐藤千亜紀のソロアルバムである。正確には2019年11月の発売だが容赦の範囲として。

一曲々々が、やたらめったら深く強く奥に刺さる。様々なトップクリエイターたちとつくったアルバムではあるが、そういった意図はおそらく当初はなかったと思わせる。楽曲に対してなにが最善かなと考えたときに、自然とこのスタイルに落ち着いたと考えたほうが腑に落ちる。もちろんソロキャリアの一枚目だから、なにからしさを求めると言うよりは、佐藤自身が刺激を得られる意味も含めて、大勢のミュージシャンと関わったことは結果的にシンガーとしての視野を広げているだろう。

アルバムとしての統合的要素よりも、各曲が一曲単位でプレイリストに入れられて聴かれるサブスクリプション時代において、一曲の個性を放射状に配したことが、きっと傾向の把握や方向の模索に作用するし、手広くやっていいところを集める手法はソロキャリアのはじめじゃないとできない。

そういった時代感を捉えている作品だからこそ、冗長な楽曲がなく、コンパクトにシンプルな顔を持つ歌が多い。それは、コード進行や楽曲構成、メロディの配列などからもそう感じる。ハイライト的にどこをトリミングしても気怠くならない、あえて言うならイマドキな音楽観だろう。

世界的な感染症が猛るいま、「自分の音楽は、なんて無力なんだろう」と痛感したミュージシャンはきっと多い。どれだけ生活が脅かされても音楽のことが真っ先によぎるミュージシャンにとって、日常が一変して、そのなかで音楽がそのひとにとって重要な存在であり続けられるのかという命題に、日本人は到達できていないように感じる。

音楽は勇気と希望を与えるとか言われても、電気がない、食べものがない、寝るとこがない、ライフラインなんてなにも整っていないところで「みんなのために」と鳴らす音楽にまだ価値は薄い。そういう意味で、作家性が薄く佐藤千亜紀本人の感情がたぎる「キスをする」は、本作では最も古い楽曲ではあるが、いろいろな思いがこもっている。きっとなにがあっても、生活がどうなろうとも、結局のところ音楽をやるしか呼吸の仕方を知らないミュージシャンにとって、生きる手段がある程度確保されてから音楽に救われていくひとびとの声が届く範囲にうたう歌が意味のあるものであれ。そう願ってうたうしかないんだ。



30 / YeYe



結婚・出産を経て、現在はオーストラリアを拠点として活動するYeYeの新作は、自身の年齢をタイトルに冠した『30』。タイトなリズムとカッティングによる都会的なナンバーに始まり、華やかなチェンバー・ポップ、口笛とガット・ギターによるオーガニックな一曲と、これまでの作品で培ってきた多彩なアレンジが、極上のインディー・ポップとして出来上がっている。

ソロのアーティストが時にはバンドセット、時にはアコースティックで演奏をするスタイルは自由で広がりもあり、時代に似合っている。そのようなアーティストが最近は増えていて、聴く側にも広がりを生み出していて良いなと思う。

「暮らし」では穏やかに爪弾くアコースティックギターのコード進行と一定に繰り返されるリズムが、特に大きく奇抜な展開ばかりではない現実世界と同じように淡々と過ぎゆく日々を表現している。暮らしのなかに時折現れる憂いの表情を想起させるのは、ファルセットを使った息遣いを感じる歌声によるものだろう。単調であれば飽きてしまいそうにも思うが、なぜか優しい気持ちになれる。それは ‟なんともないふりして 心はトゲトゲ” と日常にある些細な不安やわびしさを経た後に歌われる ‟大きく包み込み合おう” の一節と、アクセントのようにサビの終わりにかけて短く鳴らされる口笛のフレーズのおかげなのかもしれない。

そんなこの曲が内包する優しさをより引き立たせているのが「だけどそれは愛」を経た流れである。「暮らし」とは対照的に真夜中の静けさにも似たシリアスさや愛への深い真剣さという印象を歌った曲から日常がテーマとなるシーンへ移ることで、日常が持つ重みをさらに感じる作用が働くと思えてならない。

シンセサイザーなどを多用したメロウで都会的なサウンドは、一聴するとシティ・ポップのように聴こえるが実はそうではない。それは、きらびやかな外の風景ではなく、日常や自分の内面に視線を向けて歌っているからだ。街の景色やそこに生きるひとびとを歌ったシティ・ポップの元祖であるシュガー・ベイブの “DOWN TOWN” の概念への対義語が存在するなら、僕はそこにYeYeの “暮らし” を挙げたい。そんなありふれた日常を洗練されたポップソングに昇華していることもこの作品の特徴だと思う。

今回YeYeは憂いや弱さのような自己の内面を楽曲の焦点としたが、それはいまに始まったことではない。前作の「ゆらゆら」や「うんざりですよ」の歌詞にも現れていたが、本作ではそれがさらに色濃く反映されている。ただ無鉄砲かつがむしゃらに押し進める強さとは違い、自身のなかにある憂いを認め、それを受け入れたうえで進むことが強さであり愛することだと音楽で表現したのではないだろうか。

SNSの存在があたりまえとなり、小さな画面のなかに見えるものがすべてだと捉えがちだが、そこに映らないものこそが生活の本質であったりする。無意識に完璧な自分を演じてしまうこともあるけれど完璧などもなく。実際は淡々と過ぎる毎日を必死に生きているが、ここで歌われているのはそんな我々の日常であると感じた。いつもの日常に潜んでいた感情が音楽として歌になったことで迷う心が少し軽くなった。

これまでの生活がどうだったかすら忘れそうになる現在、このアルバムは何気ない日々の暮らしの匂いを思い出させてくれた。いま、起こっている混乱が落ち着いた後の世界は変わってしまっているかもしれないが、それでも日々の暮らしは続く。だからきっと、楽曲たちはいつまでも我々に寄り添い、そして心の窓に風を吹かせてくれるはず。



おいしいパスタがあると聞いて / あいみょん



今作をパスタで例えるならば、乾麺ではなく生麺だと思う。生パスタとあいみょんは似ている。乾麺はデュラムセモリナ粉を100%使わなければならないという決まりがイタリアにはあり、それは常温で長期保存するためにこの粉が必要だからではあるのだが、製造方法が限定的なので製造者による味の違いが少ないという特徴がある。味が安定していて長期保存ができるメリットはあるが、個性を出しづらいというデメリットがある。

それに比べて生麺のパスタは使う粉に規定はない。

家庭によって、つくりかたも使用する粉の種類も違う。パン用の小麦粉を使ったり、薄力粉を混ぜて使うひともいる。そのため調理者の個性やこだわりが反映されやすい。イタリアの一般家庭でも家によって味が違う。日本の家庭における味噌汁のような存在である。(すると家庭的な女がタイプなオレと大親友の彼女のツレは、イタリア人だったのではないか)。

生パスタは乾麺のパスタよりも家庭的で素朴で優しい味だ。

乾麺よりもモチっとした食感が出しやすいこともあり、食後の余韻も残りやすい。それは今作のあいみょんが素朴な歌声と優しい音色の編曲をしていることに似ている。あいみょんは乾麺パスタの美味しい店へデートに誘っても付いてこないが、生パスタの美味しいお店に誘ったら喜んでついてくるはずだ。乾麺を使うジョリーパスタよりも生麺にこだわっている鎌倉パスタをあいみょんは好んでいると仮定できる。尾崎世界観は鎌倉パスタにあいみょんを誘ったのかもしれない。

なんの話や。

真面目な話、日本のポップスのアルバム、特にあいみょんくらい売れているアーティストのオリジナル・アルバムとなると、多様なジャンルをてんこ盛りにすることが多いように思う。アルバム全体を通して、色んなサウンドを楽しめるようにするギミックが多いし、幅広さこそそのアーティストの豊潤さとして語られる文脈も多い。実際、僕自身サウンドの幅の広さにグッとくることも多いわけだが、そう考えたとき、あいみょんの今作はそこまでサウンドの幅が広くない印象を受ける。あいみょんのカラーだけで考えても、もっとサウンドの幅を広げることができたように思うのだ。

今作はわりとコンパクトにサウンドをまとめているし、全体的なサウンドが印象に残る。いくらでも幅が広げられるなかで、わりと統一したアレンジに固められている。例えば、もっとフェス受けしそうなロックチューンを入れることだってできたはずだし、逆にもっとダンサンブルな一曲を放り込むこともできた。しかし、ベースはどの歌も路上の弾き語りで成立できそうな、フォーキーな楽曲である。

古くはスマッシング・パンプキンズの『メロンコリー、そして終りのない悲しみ』、近年ではSEKAI NO OWARIの『Tree』など、アルバムのコンセプトを、歌詞の物語性とかある種のアートワークで表現しがちな国内外を問わぬポップスにおいて、サウンドでコンセプトのようなものを提示するあいみょんのアルバムに、個人的にドキドキしたのだ。

「弾き語りで成立する」それはサウンドの力を借りずとも、メロディーそのもので勝負できる楽曲ばかりであることを意味している。より深く言えば、どの曲もメロディーが洗練されていて、耳馴染みが良いことも示してもいる。あいみょんの歌は良い意味で90年代のポップスの瑞々しさを持っており、「空の青さを知る人よ」などまさにである。それを今の世代ならではのセンスで仕立てている。

あいみょんの歌はそういうバランス感覚が優れている。だからこそ若者のみならず、全世代に突き刺さるような音楽を生み出している。そういうあいみょんならではの感性が炸裂したアルバムだったように思うのだ。

このアルバムのタイトルに「おいしいパスタがあると聞いて」という言葉をのせてしまう辺りが、あいみょんらしいと思うのである。可愛さと不気味さと、ある種のエロさとキュートさを織り交ぜたあいみょんだからこその絶妙なバランス。フリッパーズギターに憧れてきたというあいみょんの言語感覚の結晶である。

あいみょん自体が苦労を表に出さないようなタイプの、自然体な感じがするようなタイプのアーティストだから、すべてが軽やかに見えるけれど、このバランスをこのかたちで成立できるのは、いま、あいみょんしかいないはずだ。



おわりに


私見と偏見で勝手に選んだのでできるだけ文句は受け付けないけど、間違いとかあったら遠慮なく指摘してください。

今年はいつにないくらいの打撃があった音楽シーンにおいて、いい歌が本当に多かった。私見と偏見で勝手に選んだプレイリストもあるので、よしなに。




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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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