初めて聴いた回は、2010年の第2シーズン『ヅダの回』だったかと思う。当時のポッドキャストの最新回は、過去25話ほどまでさかのぼれたので、正確な入口はいまとなっては不明瞭だが、我ながら最悪に近い回から入ったものだと思う。
当時、僕は高卒1年目の浪人生ルーキーだった。結果的に大学入学まで3浪するわけなんだが、先行きの見えない浪人生活の最中、知らないおじさんたちのくだらない話に何度も救われた。
どうなるかわからない人生の進路に劣等感をグサグサと刺して遊んでいた浪人期間に、勝手ながら、失礼ながら、自分とよく似た人間的敗北感を二人の会話から感じていた。どうせ俺なんて、という当時の僕の、やさぐれのような、あきらめのような、とにかく負の感情を楽しく同期することができた。
話している内容がなにせ『僕おも』である。自分たちだけがおもしろいことを言っている。肩の上から言われているような、膝の下から言われているような、不思議な番組名は結局どちらでもあった。受験に向かって神経がピリつくなか、どん底まで心が荒まなかったのは、シンプルに『僕おも』で心身のストレスを忘れることができたからだ。
11年。長い。2007年からポッドキャストを趣味としている僕が、2021年になってもなお聴いている番組のなかでも屈指の長寿だ。終わってしまった番組は多いし、『僕おも』もそのひとつになってしまった。TBSラジオがポッドキャストから事実上の撤退をしてからもずいぶん経つが、長寿番組が終わる感傷はなんとも言いがたい複雑さがある。
第5シーズンまで、これまで何度もあった「お休み」ではなく「おしまい」である。番組を続けることの難しさは僕も解っているつもりだ。二人ともよく番組のことを謙遜していたが、決して楽々安穏と15年という歳月は過ぎない。
リスナーにとって、ラジオはあまりに生活に近い。終わってしまったら、まるで得たものを失ったような空間が残る。番組の存続を簡単に願うのは無責任だ。しかし、生活の一部として染みつけば染みつくほど、ラジオが抜けたあとの穴は大きい。
ただ、僕は思う。
番組を楽しむのはリスナーだが、パーソナリティの幸せを願うのもリスナーとしてのラジオ体験である。仲違いすることもなく、体温をそろえて、15年も配信を続けた二人の幸せを、僕たちの生活に染みついた二人の幸せを、僕たちは願わなければいけない。おなじ国の遠くの街できっと暮らしている二人を思い返して、元気だろうか?と思えるのもリスナーの特権だ。
喪失感とも呼べる空虚な感じはあるだろう。しばらくは手持ち無沙汰な感覚とともに、僕たちは生活をしなければならない。それもしかし、いずれ消えてしまうんだろう。
更新のない『僕おも』のアーカイブを聴いて、それでも僕たちは、仁尾智も佐々木あららもいない生活に慣れてしまう。『僕おも』は終わってもラジオはある。あたらしい番組もはじまるかもしれない。そんな生活に、いつかは成り下がってしまうだろう。
ラジオのなかでもアーカイブが残るポッドキャストにおいて、そのアーカイブは財産である。
おしまいを
わすれるために
リスナーと
でっかい音で
鈴を鳴らそう
いまのうちにしか手にとれない感情がきっとある。たくさんの駄々話と無駄遊びをありがとう。お悩み相談に乗ってくれてありがとう。ジングル、使ってくれてありがとう。仁尾さん、あららさん、からだにはどうかお気をつけて。チーム僕おものみなさん、素敵な番組をおつかれさまでした。
『僕たちだけがおもしろい』を、聴いていた僕たちがきっと、いちばんおもしろいんだから。
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