『まともじゃないのは君も一緒』なのか、まともじゃないから君と一緒なのか

2021/09/06

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僕の母は昔から、おにぎりを持たせるときに「焼きそば入りのおにぎり」を渡してくれた。中学の部活の練習の合間にそれを食べていると「変だよそれ、どっちも炭水化物じゃん」とチームメイトに言われ、よその家ではこれが普通じゃないんだと知った。

自分が普通だと思っていたことが、実は普通じゃなかったということは、成長の過程で大なり小なりだれにでもあると思う。

大辞林で「普通」と引くと、[名・形動]それがあたりまえであること。また、そのさま。とある。

では、あたりまえとはなんなのか。どこまでが常識でどこからが非常識なのか。定義は曖昧で個人差のある言葉だ。

「普通=正しい」という考えかたすら肯定されるテクストもあり、多様的実在が重んじられる時代に必要な言葉かどうかさえ怪しい。


こんなに曖昧なものはない


普通の恋愛がわからない数学の予備校講師と、普通をわかったつもりでいる女子高生が共犯関係を結び計画的に恋愛の成就を狙う様子を、気の抜けるようなオフビートな音楽に乗せてユーモラスに演出する。空気感こそやわらかいが、放たれる舌戦は機関銃とマシンガンによる撃ち合いの如く噛み合わず、どちらにも弾があたらない。だからこそ観ている我々は「普通」という便利で曖昧な言葉に日頃しがみついていることに気づくし、かつ「普通」でなければ「異常」なのか?という葛藤も軽快に否定してくれる。


成田凌と清原果耶の会話は舌戦にして至って自然な温度感をキープしており、きっとカメラが回っていないところでも、こういう会話をしていたのではないかと思わず想像させる。

だれしもが知らず知らずに流されている「普通」という概念にたいして、「普通」でいることをやめて自分の中核となるアイデンティティを模索するやりとりは、もどかしくもあり、同時に可愛らしく可笑しい。

多用されるクロスカットは、二人が常にどこかで関わり合っていて、違う方向を向いているときも互いをかすめているなにかを思わせる。

平行線をゆくばかりの会話劇だが、目的は香住の意中の実業家と恋人との婚約を破棄させることだ。そのために、恋愛経験皆無の女子高生である香住が、学校のコミュニティやネットコラムで集めた表層的な知識をもとに、数学一筋で一般教養を通ってこなかった予備校講師の大野を本物の男前に仕立て上げる様子はシンプルに可笑しくてすごい。それなのに面と向かって肩を掴まれ「君が必要なんだ」という大野の言葉に香住の心は揺れてしまうのだから大変な筋書きである。

しかし、ご飯に行こうと誘われ馴染みの定食屋に連れていくことはおかしいのか。お皿を買うのに思ったことをそのまま言ったら悪いのか。女子生徒の間で愚痴の標的になっている生徒に向かって質問するのは変なのか。

「普通」とは指標に過ぎない。そこから解放されるのも、自分らしさを求めるのも、そこをよりどころに保つ自己も、すべて正解であり、なにも悪くないのだ。

普通なんかどうでもいい
何かを諦める口実なのか?自分で決めろよ!
普通なんかどうでもいい。そんなものに縛られる必要はないんだよ

面白半分におかしく観れてしまう映画だが、それだけに留まらずに訴えてくるものもある。



歩くシーンから読み解けるもの


食器店でのやりとりのあと、雨があがり、早歩きで計画の取りやめを切り出す香住に大野が「君が必要なんだ」と大声を出すシーンに代表されるように、この映画の名場面はことごとく歩くシーンだ。

とくに印象的なのは、美奈子と接触するために訪れた小料理屋の帰り道に、夜の散歩を楽しむ二人だ。

前述したように大野は数学一筋で屁理屈な男だが、きちんと美奈子の、相手の女性の歩く歩幅に合わせている。美奈子の本質的にパーソナルな部分がわからない部分も多いが、大野は少なくとも美奈子をよく見て歩いている。空いている女性のことを観察して、合わせることができている。

たいして香住は、大野と歩くときをはじめ、同級生との会話や君島さんとのやりとりなどを見るに、自分ペースで物事を進めるタイプだ。だから大野と歩いているときも、自分のペースで歩いている。

こういった所作から紐解ける大野は、香住が作り上げなくてもちゃんと男らしい。変な笑いかたは治らないが。


言葉のあやと曖昧



僕も文芸をやっていたときに言葉の曖昧さについて強く感じた時期があった。文芸学の世界に長く浸かっている教授みたいな人間は本当に「普通」などの曖昧な表現や、日本語で起こりがちな主語の省略を嫌う。研究報告などで、最初のうちはめちゃくちゃ主語省略を指摘されたし、心の底から「そんなの普通に考えたらわかるやん」って思っていた。しかし不思議と、そういう世界に一年もいたら、今度は自分が「普通」みたいな曖昧な表現を使わなくなるものだ。言葉を明確に伝えるために言葉の省略をしなくなってくる。

そうすると次は、実家に帰ったとき家族との会話で、伝わるだろうという気持ちで多くの言葉が省略されていることに気づく。そしてそれは、とても気持ち悪い。口にこそ出さないが、「そこにはあの言葉が省略されてるから、それじゃ間違って伝わる可能性があるのでは」と思うのだ。それと同時に、これまでできていた省略された言葉を読み解く能力が著しく低下していることを自覚する。何気ない家族との会話で「おそらくこれだろうな」ってものはあるが、「いや別の可能性もあるな」と感じると、「どっち?」という会話が明らかに昔に比べて増えた。大学を出て数年たったいまはそういう感覚も消えたし、そういう意味では僕は「普通」に戻ったのかもしれない。ただ、そういう経験があったからこそ、本作は非常に面白く頷け、わかる部分も多かった。

実際に言葉遊びとして、ありがちな同音異義語によるすれ違った認識を進めていったひとつの芸がアンジャッシュのコントである。アンジャッシュのコントで大勢が笑えるのは、それを観るだれもが似たような経験を持っているからであり、そういった意味では、アンジャッシュをおもしろいと思えるひとは今作もおもしろいはずである。


結び


「普通」とか「まとも」とか、曖昧な言葉が多く出てくる。指標となるに過ぎない普通を、だれもが一律に持つ感覚だとしたら、きっと世のなかはつまらないものだろう。

まぁただ、大野がカラオケボックスに持ってきた資料は大きな写真付きの行間の多い資料だったけど、本当に数学気質な人間は最小限の画像資料にようやくした箇条書きで持ってくるんじゃないかな。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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