『のび太の宇宙小戦争2021』で駆けぬけた、リメイクとしてあるべき姿

2022/08/22

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映画ドラえもん『のび太の宇宙小戦争2021』を観た。

今作は例年どおり3月の公開だったそうだが、新型コロナの疫禍でまるまる一年スライドしたかたちとなっているらしい。いま僕が「だったそうだが」「らしい」と書くのには理由がある。

そもそも前作『のび太の新恐竜』のときもそうだったが、映画の公開が延期されるといつ公開しているのかわかりづらい。僕は毎年3月にドラ友のあおいくんと一緒にドラえもんの映画を観に行くという規則的なイベントがあったが、そのルーティンが乱れると「映画館に足を運ぶ」という習慣が崩れてしまった。あおいくんからLINEが来なかったら忘れていたほどの、ドラえもんファンとしてあるまじき体たらくを衆目に晒す意味でもここに書き残して戒めなければならない。

私的な話ではあるが、あおいくんもあいかわらず忙しい。予定がなかなか合わず、誘う/誘われるのイベントも起こりづらかった。そのあいだに僕は車に吹っ飛ばされ、映画館に行ける体ではなくなってしまったというのが言い訳の大筋である。

話をドラえもんにもどそう。

『のび太の宇宙小戦争』は1985年公開の映画第6作で、今作はそれのリメイクにあたる。2006年以降映画ドラえもん新作には「旧作のリメイク作品」と「オリジナル作品」がランダムに続いており、それについてはそれについてで話すべきことがある気もするが、今作は「リメイク」のほうだ。今日は『のび太の月面探査記』のときのような大々的な構成を考えていないので、思うまま書くがままに感想をただ流すエントリーにしたいと思う。

結句から言うと「リメイクの鑑」のような作品であった。映画ドラえもんの新作における「リメイク作品」とは、原則的に「旧作」を作りなおすのではない。旧作には藤子・F・不二雄の書いた「原作」の漫画があり、リメイクの新作はこちらを再定義しているということは書くまでもないだろう。映画ドラえもんを語るにあたり「原作」「旧作」「新作」の定義はそんなところだ。

『新・日本誕生』あたりでは顕著だったが、それはすなわち「原作にはあるけど旧作でカットされている台詞」や「原作にはないが旧作で登場したオリジナル演出」などが細かに存在するということだ。ジャイアンがトキの群れをみて言う「おお、ワンダフルだぜ!」は前者、のび太が階段から落ちたときのドラえもんの「第一歩を“踏み外した”」は後者である。これは今作の話ではないので『新・日本誕生』を観てほしい、金字塔なので。

今作『のび太の宇宙小戦争2021』では、原作と旧作どちらともから、残してほしい部分をしっかりと描ききり、蛇足になりそうなエピソードや、脚本の展開上余剰になる演出はカットされている。また、原作でF先生が「描きたかった」箇所を汲み取り、描かれていなかったその部分をきちんと膨らませて、子どもはもちろん、大人が見てもわかりやすく楽しい作品になるよう仕上げている。

今作の魅力の第一は、衰え知らずのスピード感である。

映画冒頭、のび太がスネ夫やジャイアン、出木杉くんたちと一緒に映画を撮っている。原作では、仲間はずれにされたのび太が一人で取り組むことから始まっているが、そのくだりを省いて日常のシークエンスを良質に描いた英断であると思う。

序盤からあっさり事件が起こり、ゲストキャラクターのパピがのび太たちの生活に登場する。もちろん、いつもどおりゲストキャラクターとのび太たちの楽しいひとときの描写もされている(スモールライトで小さくなってバギーレースするところ)が、それも敵襲により簡単に終わって次の展開へと進む。

とても時代観を捉えている判断だと思った。

倍速で映画を見る若者や、子どもたちの集中力の低下などが現実視されるなか、まったく飽きないスピード感で矢継ぎ早に作劇している。スパイダーマンシリーズで、蜘蛛に噛まれるあのくだりをカットしているのに非常に近い。こういった判断を下すと「文脈が〜」「カタルシスが〜」などと言われてしまいそうなものだが、完璧なリズム感でそれらを却下している。新しいところは足しながら、しかし原作旧作の名台詞や印象的な場面は一層象徴的に描いていて、「焼き直し」ではない「リメイク」であることが伝わってくる。

時代観という意味では、しずかちゃんのお風呂の場面のような「ドラえもんあるある」や、旧作でのスネ夫の「女の子ひとり行かせるわけには」といった台詞等への配慮もあった。スネ夫の台詞は「君を一人で危険な目に遭わせるわけには」に変更されている。他方、スモールライトの効果が切れたのび太たちが敵の戦闘機を倒す場面では、攻撃を加える対象が無人戦闘機であることを確認するなど、子ども向け作品を手がける作家としてのプロ意識を感じた。

制作時期と重なってはいないだろうが、公開されたいま、奇しくも戦争が始まってしまっている国がある。争いごとにたいする対人被害という繊細な側面に、偶然とはいえマナーを守った作劇を貫いたのは、やはり日頃の意識の持ちようと言うしかない。

そういった作り手が制作するなか、大きなプロットの変更点として、パピとしずかちゃんを二人とも奪還する場面が挙げられる。原作では、しずかちゃんの解放と引き換えにパピは連れ去られてしまう。そのため意外と、のび太たち5人とパピが一緒にいる時間が少ない。

今作では、パピがみんなと目的や行動を共にする時間を多分に持たせており、パピを「一国の大統領だけど、のび太たちとおなじ(あるいは、映画を観ている君たちとおなじ)普通の男の子なんだよ」という目線で撮っている。たしかに旧作でのパピはあまりに大統領然としていて、子どもらしさがなかった。みんなとおなじ子どもなんだよ、という同列の観点から撮ることで、ゲストキャラクターの魅力を深める役割を、あのプロットの変更は担っている。

また、最初にパピが宇宙船から姿をあらわす際に、パピの背中越しにのび太を撮り、その後ろに天井を描いている。これは、演出としての印象を大きくするだけではなく、パピの「こちらからすればあなたたちのほうが巨人です」という言葉に、説得力と威力を与えている。アニメーションと作画に並々ならないこだわりを感じるし、今作における宇宙人と地球人の関係性も明示していて、芸が細かい。コンテの切りかたも実に見事としかいえない。

良かったのは、大人が観れる温度感でもあったことだ。ドラえもん特有の子どもだましな演出が少ない。階段でズッコケるとか、ドラえもんが真っ白になって消沈するみたいな、いわゆる「映画館で子供だけが笑う演出」が本当に少ない。ああいう演出は大人になると当然ついていけない。今作にもあるにはあるけど(スネ夫の「ピーンと来た!」とか)、子どもだましというよりも、子供が喜びそうなものにとどめている。

近年、あれほど好調だったドラえもんの興行成績は落ちている。

個人的には、このまま興収の回復を目論んで、アニメーションの演出にディレクションが入ったり、「ドラえもんにはやっぱズッコケの演出ですよね!」となってほしくはない。新キャラクターの登場によって人気を得た『名探偵コナン』や、脚本設定に基本的な制約がない『クレヨンしんちゃん』のような映画と違い、『ドラえもん』には「F先生がなんて言いますかねえ?」のような目線が必ずつきまとう。ドラえもんという、未完のまま完成されきった作品観があって、大きなはみ出しが許されない構造のなかで制作している。オリジナルで世間的に当たった例が少ないということもそうだが、「ドラえもんはこうやって語り継いでいきましょう」という、旧時代的な価値観のなかでつくるため、ファンとしては、最初から天井を決めないコナンやしんちゃんは羨ましいとさえ思う。これ以上の大化けはない、という悪い意味で期待しない心持ちをみんながしている。僕は、ドラえもんは社会現象を巻き起こすものではなく、「今年もこの季節がやってきた」という風物詩的な見方をしているので、良きか悪しきかドラえもんに期待をしていない節がある。

ただそれも逆を言えば、原作を読んでいたり、旧作を知っている世代に受け入れられている、という事実は大きいとも言える。パピの演説の場面なんか、シークエンスとしては子どもより大人のほうが刺さるのではないだろうか。もちろん、子どもに響いてほしい願いを込めて、という前提ではあるが、それ以上に大人が心を突かれている気がした。

だからこそ、見る大人によっては、どうしても戦争という公式を当てはめるひとが出て来ないだろうか、という恐怖もある。侵略する側/される側の構図もそうだし、市民の気持ちであったり、独裁者の描きかたであったり、悪意で誤読しようと思えばできるとも思う。パピが首からぶら下げているペンダントが青と黄であることも、なんの意図もないにせよ、奇しくも重なってしまう。そういう目で見られないように願う。

戦争への留意はあったし、しずかちゃんの「このまま終わったらあまりにみじめじゃない!」という原作にもある象徴的な台詞は、日経新聞に広告として載っていたら炎上しかねないが、「子供が戦争に向かう」という渦中、いちばん大切なところで大事に使われていて胸を打つ。

そういう懸念があるとはいえ、ラストシーンがとても良かった。みんなが映画の試写会をやっていて、終わったあとに出木杉くんが「これすごいよ、どうやって撮ったの?」とたずねるのだが、5人が興奮しながら「聞きたい?」と返して幕をおろす。ああ、僕が見ることができるのはここまでなんだけど、彼らの生活はこの先も続いていて、それは幸せに満ちているんだな、というこれ以上のない終わりかたである。文字どおり最高である。好きすぎて勝手にアイキャッチにしてしまった。

10秒程度の後日談としてこのラストシーンを入れた監督のこだわり、脚本の素晴らしさ。他の子には得られない経験をした子どもたちが、その体験をプロダクトにして、天才児も顔負けの映画をつくった事実が、過去のドラえもんのどこにもなかった盲点をついて描かれている。

『蟲師』の最終回で、最終らしい大きな出来事のあといつもどおり煙草をふかせて主人公ギンコの言う「さて、行くかね」や、細田守の描いた『時をかける少女』で「やりたいことができた」と話しながらも功介の「なんだ、教えろよ」に真琴が返す「また今度ね」、あるいはイーサン・ホークのビフォアシリーズ二作目のラスト「ベイビー、空港に遅れるわよ」もそうだが、物語は終わっても、登場人物の未来を予感させる描写が、いったいどれほど尊いか。

最後に、主題歌『Universe』をうたうOfficial髭男dismについて。

生活に流していて煩わしくない、心地良いリズムと歌声以上に、サブスクリプションが主流になって、SNSでの楽曲利用の都合上イントロなしから歌い出しを迎える曲が多いなか、彼らにはイントロを美しく象る美学を感じる。

映画の内容そのものに寄り添う歌詞の文芸性「心に土足できた侵略者は正義だとか君のためだとか銃を片手に身勝手な愛を叫んだ」「ブランコに揺られはしゃいでる姿は面倒と幸せを行ったり来たりして」などはもはや当然として、「伸びた影見つめ」のなかに「のび太」を入れるなんてクサいことを嫌味なくうたいあげる。

「0点のままの心」が「答えを知」って「満天(満点)」になるストーリー基軸の起結であったり、「どっち?」「ひとりぼっち」「(解答)用紙」で臆面もなく押韻してくるところなんかは、中途半端にやってしまったら恥ずかしいものを威風に活写していて、J-POPのトッププロだなと思った。

この歌のBPMは93。そして、ドラえもんの誕生日は9月3日。偶然だろうか。いや、彼らだったら……と思わせるような叙事性と修辞が隈なく配されている。

百点満点だよ。

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好きな言葉は「アイスクリーム4割引」、嫌いな言葉は「ハーゲンダッツは対象外」です。趣味はドラえもん考察。読売ジャイアンツのファン。高2のとき現代文の全国模試で1位に輝くも、数学に関しては7の段があやしいレベル。

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